曽根晃太(明治大学体育会サッカー部/愛媛県喜多郡出身)最終回「環境が変わっても己の力で切り拓け」
MF曽根晃太は愛媛FCジュニアユースに入団した。二次セレクションを受けずに合格したため同期との初顔合わせの際には驚かれたという。曽根が住む地域から練習場は1時間以上かかる。学校が終わり、祖父母が車で迎えに来る。移動しながら車中で着替えを済ませた。中学の最寄り駅で車を降り、電車で松山市まで通った。帰宅時間は夜の10時あたり。家に帰ると夕食を済ませ、風呂に入り眠るだけだった。
父・健史は多忙な曽根の様子を振り返る。
「電車の中で宿題をこなすなど大変そうでしたが、好きなことだからできるのかなァと思っていました。せっかくやるならば、本人には楽しんで取り組んで欲しいな、と見守ることしかできなかった」
中学にあがると、ボールが4号球から5号球にかわり、約一回り大きくなる。曽根は「ボールタッチの感覚が違うので最初は苦しんだ」と言うが、慣れさえすればこちらのものだった。運動神経がよく、スポンジのように何でも吸収した。ジュニアユースでも曽根のドリブルテクニックは定評があった。指導者からは“輝くものがある”“他の選手とは違うモノを持っている”と太鼓判を押されるほどだった。レベルの高い愛媛FCジュニアユースでドリブルに磨きをかけ続けた。
サッカーで多忙な曽根。中学での学校生活はどうだったのか。
「サッカーは忙しかったが、学校行事には参加できました。体育祭では応援団を務めました。文化祭では友達と“バンドの抽選に応募してみよう”と申し込んだのですが外れてしまいました(笑)。僕は同級生にも恵まれ、みんなでワイワイと楽しめました」
父・健史はサッカーに多くの時間を費やす息子を見て「学校にいる時は、学校の仲間を大事にしなさい」とアドバイスを送っていた。その甲斐あってか曽根が帰省すると今でも数人の仲間が実家に泊まりにくるという。
ユース昇格を蹴り、高体連へ
曽根の代の愛媛FCジュニアユースは四国でトップレベル。だが、全国大会に出場しても1勝もあげられなかった。「それが心残り。全国は広いな、と痛感させられた」と唇を噛んだ。
中学3年の春。愛媛FCジュニアユースは選手たちと面談を行う。中学卒業以降の進路を決めるためだ。クラブ側は曽根に「昇格して欲しい」旨を伝えた。だが、曽根は「高校サッカー部に進みたい」と申し出たのだ。クラブ随一のアタッカーは「高校サッカーに憧れていた」と理由を述べた。
その決断を聞いた父・健史も「私もその判断で良いと思いました」と語り、こう続けた。
「小学校は個の力でやってきた。そして愛媛FCジュニアユースに入って初めて“サッカーとはなんぞや”というのを知ったと思うんです。“この時にはボールを戻す”“この時には横にパスを出す”という具合に……。仮にユースに昇格したとしてボールを持ったら前に運べる晃太のスタイルに合うのかなァ、と。それならば高校のサッカー部にしようとなりました」
曽根は最終的に愛媛県の強豪・済美高校に進学するが、当時は県外の高校進学も視野に入れていた。愛媛FCジュニアユース出身者が済美高校サッカー部に入部するケースは珍しくない。久保飛翔(元・ファジアーノ岡山)、藤本佳希(現・愛媛FC)らがそうだった。曽根親子も当然、この情報は耳に入れていたという。
曽根は済美高校サッカー部の練習に複数回参加し、スポーツ推薦で合格を勝ち取った。Jリーグ下部組織では芝生のピッチでプレーをしたが、サッカー部は土のグラウンドだった。環境面のギャップは感じたが1年時の春、インターハイ予選でベンチ入り。2年時にはレギュラーに定着した。
個人でのフィジカル強化
「高校時代に意識的に取り組んだことは?」と質すと「フィジカルトレーニング」と答えた。ドリブルが得意な選手を当然、相手DFは潰しにくる。テクニックだけに依存せず、高校の3年間で当たり負けないよう、トレーニングに励んだ。
曽根の回想。
「高校に上がるとフィジカルコンタクトが多くなってきた。そこで“当たり負けないようにしないと”と意識し始めました。野球部と兼用で使わせてもらう学校のトレーニングルームでベンチプレスやチェストフライ(胸筋と腕力を鍛えるマシン)で上半身を中心に鍛えました」
憧れていた冬の選手権出場は叶わなかったが、愛媛県のマンモス校で貴重な経験を積んだ。全校生徒は約2000人。全国からスポーツのエリートが集まる。小学校は学年1クラス、中学校では学年2クラスしかなかった学校出身の彼にとって高校生活は新鮮だった。
曽根の代は愛媛県新人戦で優勝を果たした。しかし、学校は全く取り上げてくれなかった。「この程度だと特に学校側からは何もない。クラスメイトに“新人戦で優勝した”と話しても“それは全国大会にはつながらないんでしょう?”と。愛媛で一番を獲るのは当たり前な部活がたくさんあるので……。でも、そこで“満足しちゃいけないんだ”と学びました」
父親からのエール
そして高校卒業後は明治大学に進学した。小、中、高と常にレギュラーとして君臨し続けてきた。彼にとってトップチームに定着しきれない現在が一番の挫折である。大学4年生となった今、時間がないことは確か。それでもサッカー人生で悔いを残すまいと戦っている。直近の目標を鋭い目つきで述べた。
「8月下旬、大阪で開催される総理大臣杯のメンバーに入ること。そのためにもIリーグで結果を出さないといけない。明治のサッカー部は毎週月曜にトップチームで練習するか、セカンドチームで練習するか発表されます。毎週が僕にとっては勝負です」
関東でもがく息子に父はエールを送る。
「東京に行って4年間で知り合った同期、先輩、後輩、指導者を含めた大人の方々……。たくさんの人と知り合ったと思います。晃太にとって、この4年間は人生で大きな財産になっているはず。本人には“オマエはそっち(東京)で就職を見つけて、頑張れ”と言っています」
愛媛の小さな町からドリブルでここまで進路を切り拓いてきた。大学サッカー人生は残り僅かだが、腐る素振りは微塵もない。この経験を肥やしに社会に出ても不屈の精神で様々なことを乗り越えていくのではないか――。そう思わせてくれるのが曽根晃太という青年である。
(おわり)
<曽根晃太(そねこうた)プロフィール>
1997年7月13日、愛媛県喜多郡出身。新谷SSS-愛媛FCジュニアユース-済美高校-明治大学。2つ上の兄の影響でサッカーをはじめる。ドリブルを武器に小学生時代から2列目のアタッカーとして頭角を現す。済美高校時代には国体愛媛県選抜に入った。2016年4月に明治大学体育会サッカー部に入部。インディペンデンスリーグと総理大臣杯を中心に戦う。大学最後の今季はレギュラー奪取を目指す。身長167センチ、体重61キロ。
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(文・写真/大木雄貴)