明治大学体育会サッカー部のMF曽根晃太は愛媛県喜多郡で育った。この町は自然豊かで、田畑も多い。現在は日帰りや短期滞在で都心に住む人々が農業などを体験するグリーンツーリズムを取り入れている。

 

 

(2019年7月の原稿を再掲載しています)

 

 曽根は育った町を「田んぼだらけです。小学校は1学年1クラス、中学は2クラスしかなかった田舎です」と説明した。緑に囲まれ、育った彼は室内で遊ぶより、外で走り回るのが大好きだった。

 

 父・健史は息子の幼少期をこう述懐した。

「よく動いて、よく寝る子でした。家の中にいるより、外でいつも遊んでいた記憶があります運動神経は小さい頃から良かったですよ」

 

 父は学生時代にソフトボールと野球を経験していた。当初は野球を習わせたかったようだが曽根の育った町に野球少年団はなかった。曽根の2つ上の兄が地元のサッカー少年団に入っていた。そのことがきっかけで曽根も小学2年の時にサッカーを始めたのだ。

 

 1学年に1クラスしかない地元のサッカー少年団。人数は少なく、全学年合わせて1チームを編成する。上級生たちにまじっても曽根の実力は抜きんでていた。アタッカーとして入団初期から活躍すると、試合で対戦した新谷サッカースポーツ少年団(SSS)の監督から声を掛けられ、2つのチームでサッカー漬けの日々を送った。

 

 現在のスタイルの根幹

 

 曽根の長所はドリブルだ。その武器はこの時から際立っていた。新谷SSSの監督が選手たちに送っていた指示を曽根が教えてくれた。

「“迷ったり、困ったりしたら晃太にパスを出しなさい。晃太にパスを出しておけば、1人、2人はドリブルではがしてくれるから”と」

 

 新谷SSSのフォーメーションは3-4-2-1が基本布陣だった。曽根は2シャドーと言われる2列目を担っていた。再び曽根。

「僕と一緒に2列目でコンビを組んでいた仲間と、ドリブルで相手を抜き、ワントップの選手にパスを出していました」

 

 敵陣をドリブルで切り裂き、ハツラツとプレーしていた。大学生になった今、2列目の位置から俊敏かつ独特な上半身の使い方と巧みなサイドステップで右サイドから中に切れ込みチャンスを演出する。今のプレースタイルの根幹はすでに小学生の時に作られていた。

 

 積極的に仕掛ける姿勢を身につけたのは新谷SSSでの教えがあってこそだった。父・健史のコメントがその証左である。

「ボールを持ったら、生き生きしていましたよ。小学校の頃からですが、ドリブルしかしていない、と言ってもいいくらいでした。新谷SSSのスタイルがパス主体ではなく、個の力でボールを運べるところまで運ぶ指導方法でした。失敗したらみんなでカバーする感じでしたね。晃太も“ドリブルはするな”と言われたことがない。そういう指導方法が良かったんでしょうね」

 

 曽根は自らの個の力を武器に進路を切り拓く。小学校卒業は愛媛FCの下部組織に入団するのだ。当然、入団するにはセレクションを受けなければならない。後に笑い話になるもののこの時、親子間で“ひと悶着”が起きたのだった。

 

(第3回につづく)

 

曽根晃太(そね・こうた)プロフィール>

1997年7月13日、愛媛県喜多郡出身。新谷SSS-愛媛FCジュニアユース-済美高校-明治大学。2つ上の兄の影響でサッカーをはじめる。ドリブルを武器に小学生時代から2列目のアタッカーとして頭角を現す。済美高校時代には国体愛媛県選抜に入った。2016年4月に明治大学体育会サッカー部に入部。インディペンデンスリーグと総理大臣杯を中心に戦う。大学最後の今季はレギュラー奪取を目指す。身長167センチ、体重61キロ。

 

(文・写真/大木雄貴)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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