車いすテニスプレーヤー眞田卓のプレーを初めて目にしたのは、2012年のロンドンパラリンピックだった。フォアハンドから放たれたショットの威力に衝撃を受け、彼のプレーにすっかり魅了させられたのだ。その眞田を、10月のアジアパラ競技大会前にどうしても取材しておきたかった。8月、昨年1月に右肩を手術し、復帰した時期に取材をして以来、約1年半ぶりに練習拠点の吉田記念テニス研修センター(TTC)を訪れた――。
 試行錯誤が続くラケット

 眞田は約1カ月前の7月に世界ランキングが9位に浮上し、ロンドン以来となるトップ10入りを果たしていた。ロンドンから2年、そしてリオデジャネイロまで2年と、ちょうど中間地点である今シーズン、果たして眞田の調子はどうなのだろうか。
「今シーズンはいいと思います。今のところ結果も残していますし。今年3月のアメリカ(ケージャン・クラシック)の後くらいから調子が出てきたかな、というところですね」

 その理由は、ラケットにあった。昨年取材に訪れた際、眞田は打球のスピードをさらに追求しようと、それまでの“スピン系”から“ドライブ系”のラケットに替え、さらに面の大きさを100インチから97インチにしていた。「面が小さくなった分、面とグリップとの距離が長くなり、それだけしなりが出て強いボールが打てる。さらにはコントロールの性能も上がる」からだ。一方、ラケットの面が小さい分、ブレが生じやすいというデメリットもあった。そのため、ラケットを安定させるために重さが必要となる。眞田は、ロンドン時の300グラムから、当時は310グラムとしていた。そのため、重いラケットで3セットマッチを戦い抜くためのスタミナとパワーを身に着けることを課題としていた。

 だが、それも日々のトレーニングによって克服していった。ウエイトトレーニングの成果もあり、眞田は昨年1年間でスタミナとともにスイングスピードがアップし、自身のショット力がより上がっていることを実感したという。ところが、である。このことによって、眞田は新たな壁にぶつかってしまう。コントロールだ。今年1月の眞田のブログにはこう書かれてある。
<この一年で手術前より格別に、ショット力が上がりました。(中略)しかしその事から以前に増して、ボールコントロールに課題が出来てしまいました。(中略)意識して弱めて打たないとボールがコートに収まらない。攻めているのに常に弱気な感じで、メンタルも上がりません。>

 そこで眞田は“ドライブ系”から“スピン系”へとラケットを戻すことにした。面の大きさは100インチ。重さはロンドン時よりも軽い290グラムとした。だが、このラケットで臨んだ3月のケージャン・クラシック(米国)で、眞田は2回戦敗退を喫した。これまでトップ10に一度も入ったことのない豪州の選手に、3−6、2−6のストレート負け。ひどい花粉症に悩まされ、調子は万全ではなかったものの、それでもこの内容に眞田は納得することができなかった。

「やっぱり、このラケットじゃないな……」
 帰国後、眞田はラケットをどうしようか迷い始めた。すると、その様子に同じ施設で練習している国枝慎吾から「前のラケットに戻してみたら?」と助言が送られた。さらに齋田悟司からは「重りをはると、全然感覚が違うよ」と新たな情報を得た。国枝は今年グランドスラム(4大大会すべて優勝)を達成した世界王者であり、齋田は1996年アトランタから5大会連続でパラリンピックに出場している大ベテランだ。その2人の先輩プレーヤーのアドバイスを元に、眞田は97インチの“ドライブ系”のラケットに戻し、そして重りを340グラムに上げた。すると、最初の練習で、眞田は好感触を得た。「これなら絶対に勝てる」という確信を得たのだ。果たしてその約2カ月後に臨んだ4月のハウテンオープン(南アフリカ)では、決勝で敗れたものの、準々決勝、準決勝とトップ10の選手を連続で破り、準優勝した。

 だが、「現状打破」をモットーとする眞田は、試行錯誤することをやめることはない。現在は、“スピン系”の新型モデルのラケットを試している。実はこれ、今年の全豪オープンで優勝したスタニスラス・ワウリンカ(スイス)が使用していたモデルなのだ。シャフト部分がねじれる素材でできており、インパクト時にラケットがしなって、よりスピンがかかりやすい構造になっているのだという。取材に訪れた8月、練習を見る限りではまだしっくりいっていないようだったが、それでも眞田が重要視しているインスピレーションは悪くないと本人は語っていた。

 その言葉通り、8月末から臨んでいる長期遠征では、1戦目のUSオープンSS(スーパーシリーズ:グランドスラムの1ランク下のカテゴリー)でベスト4、2戦目のバーミンガムクラシック(カナダ)では優勝と結果を残した。その間に、世界ランキングも8位に浮上し、11月に英国で行なわれる世界トップ8のみが出場することのできるマスターズの出場も見えてきていた。

 ところが、思わぬアクシデントが起こった。バーミンガムから次の会場であるヒルトンヘッド(米国)へと移動する際、空港で荷物を運んでいる最中に手首を痛めてしまったのだ。眞田はヒルトンヘッド選手権、続くカナダ国際選手権を欠場した。日本代表として出場が決定している10月のアジアパラ競技大会に備え、治療に専念する決意をしたのだ。しかし、2大会を欠場したことによって、マスターズのみならず、来年1月の全豪オープン(グランドスラム)といったトップ8のみが出場できる大会への出場の可能性は非常に厳しくなった。それでも眞田は<これも運命と思って、しっかり前向きにやっていきたいと思います。>とブログで決意を新たにしている。もともとポジティブな性格の眞田だが、今の彼にはこれまで以上に強い思いがあるからだろう。それは昨年のあることがきっかけだった。

 気持ちを強くした2つの刺激

 昨年1月、眞田はロンドン前から痛めていた右肩の手術に踏み切った。肩はヒジやヒザ以上に成功例が少ないこともあり、メスを入れることに周囲からは反対の声も少なくなかった。だが、幸い眞田には吉と出た。術後の経過は予想以上に良く、回復スピードは担当医が驚くほど速かったという。眞田は4月から大会に出場し始めた。

 彼はそのシーズン、国内大会を中心に回ることを決めていた。中にはパラリンピックを目指すトップ選手はほとんど出場することはなく、実際に眞田も約2年間は一度もエントリーしなかったフューチャーズ(最も下のカテゴリー)の大会も含まれていた。眞田はなぜ、フューチャーズにまで出場しようとしたのか。当時、彼はその理由をこう語っていた。
「これまでの体験を踏まえて、自分には何が必要かということを、地に足をつけて考えてみようと思っているんです。それと、初心に戻りたいなというのもあります」
 果たして、どうだったのか――。

 最も印象に残っているのは、昨年が最後の開催となった10月の三沢オープン(青森)だったという。結果は無論、単複で優勝。特にシングルスでは、1回戦6−0、6−0、準々決勝6−1、6−1、準決勝6−0、6−0、決勝6−0、6−1と圧倒的な強さを見せつけた。そんな中、眞田は大きな刺激を受けたという。
「観客やボランティアスタッフの中には、初めて車いすテニスを見たという人もいましたし、関係者や出場選手の中には世界で戦っているトップ選手のプレーを見たことがない、という人もいて、とにかくみんなが僕のプレーに感動して喜んでくれたんです。そんな人たちの姿を見て、自分がプレーしていることの意味というものを考えさせられました。自分はこの人たちに影響を及ぼす存在のひとりになり得るんだなと。だから、これまで以上にしっかりやっていかなければと思いましたね。本当にいい刺激を受けました」

 さらに、眞田のやる気をみなぎらせた人物がいた。眞田より4つ年下の三木卓也だ。初出場したロンドン前から急速な成長を見せている25歳の若手である。その三木に、三沢オープンから約2週間後のピースカップ(広島)、眞田は準決勝で敗れた。それまで一度たりとも敗れたことはなかった相手であり、「絶対に負けない」という自負があった。その試合でも1セット目を6−4で先取したのは、眞田だった。ところが2セット目、眞田は1ゲームも奪うことができず、0−6で落としてしまったのだ。そのショックをひきずるかのように、ファイナルセットを3−6で落とし、逆転負け。眞田は初めて三木に負けを喫した。

 実はこの年の4月、ダンロップ神戸オープンで2人は決勝で対戦していた。結果は6−4、6−3で眞田のストレート勝ち。肩の手術をして以降、初めて臨んだ大会だったにもかかわらず、眞田は三木に快勝している。その時の三木とは、何が違っていたのか。
「総合力が確実に上がっているなと感じました。やっていて、すごいと思ったプレーは正直言ってなかったんです。でも、ミスなく常にボールが返ってくるし、チェアワークも速くなっていた。それと、最後の最後まで粘りがあったんです。対戦しながら『こいつ、さらに伸びるな』と感じました」

 眞田の予感はズバリ的中した。広島ピースカップから約3カ月後の今年1月、シドニー国際オープンで、三木は準優勝したのだ。この大会はグランドスラムに次ぐカテゴリーのSSで世界の強豪がズラリと並び、世界王者の国枝さえもベスト4に終わっていた。その大会で三木は、準決勝で世界ランキング2位のステファン・ウデ(フランス)を6−1、6−2のストレート勝ちで破るという金星を挙げ、決勝に進出したのである。既に2回戦で敗れていた眞田は、準決勝でウデを破って号泣する三木に「泣くのは優勝してからだろう」と先輩らしい言葉を口にしながら、心の中で自らを鼓舞していた。
「泣いてしまうくらい、一生懸命に練習してきたんだなと思ったら、後輩ですけど、尊敬する気持ちになりました。と同時に、『負けてられない。オレも頑張らなきゃな』と思ったんです」

 広島ピースカップ以降、眞田は三木との試合のビデオを何度も繰り返して見たという。
「僕は自分が勝った試合はほとんど見ないんです。それよりも負けた試合を見ます。それだけ相手がいいプレーをしていたということですから、それを目に焼き付けておくんです。そうすれば、次に対戦した時にパターンが読めますしね」
 三木には二度と負けたくない――そんな気持ちが眞田をビデオに向かわせたのだろう。実際、ピースカップ以来の対戦となった今年6月のテグオープン(韓国)での決勝、眞田は6−3、6−4で三木を下している。
「絶対に負けないという気持ちはありましたが、相手が三木だということを強く意識はしていませんでした。調子が良かったですし、余計なことを考えずに、自分のテニスをしただけ。それが良かったのだと思います」

 10月には4年に一度、眞田にとっては初出場となるアジアパラが控えている。果たして手首の状態は間に合うのか――。手首を痛めたというブログを読みながら、そんな思いを抱いた。だが、その不安はすぐに消え去った。眞田のこんな言葉を思い出したからだ。
「悩んでいる暇はありません。悩んでいても、時間は止まってくれませんから。だからたとえ行き詰ったとしても、常に前向きにとらえるようにしています」
 昨日よりも今日、今日よりも明日――眞田が歩みを止めることはない。約1カ月後、韓国・仁川では来年5月から始まるパラリンピックの選考レースに弾みをつける活躍を期待したい。

眞田卓(さなだ・たかし)
1985年6月8日、栃木県生まれ。埼玉トヨペットに勤務。中学時代、ソフトテニス部に所属し、3年時には県大会でベスト4に進出した。19歳の時にバイク事故で右ヒザ関節の下を切断。リハビリ時に車いすテニスの存在を知り、退院後に始める。2010年11月、上位8人に出場資格が与えられる日本マスターズに出場。翌年からパラリンピックを目指し、海外の大会にも出場するようになる。12年、ロンドンパラリンピックに出場を果たし、シングルスでベスト16、ダブルスでベスト8の成績を収める。現在、世界ランキングはシングルス9位、ダブルス8位。

(文・写真/斎藤寿子)