石本は母校・広島商業(以下、広商)野球部の監督を務め、4度の全国優勝を飾り、広商の名声を全国に広め、名実共に日本一の監督となった。この昭和6年春、中等野球選抜大会(甲子園)を制覇した際、広商野球部にある褒章が与えられた。アメリカ遠征である。

 

  強すぎた広商

 このアメリカ遠征は、センバツの主催者である毎日新聞社から与えられた褒賞旅行であった。一説には、夏連覇、夏春制覇(昭和4年夏、5年夏、6年春)を達成した広商があまりにも強く歯が立たないことから、「夏の大会期間中はアメリカに行っておいてもらおう、と連盟が仕組んだことだ」ともっともらしく噂になるほど広商は強かった。

 

 この噂についは、のちに石本の書生として石本野球を学んだ人物、稲垣人司らによって語り継がれている。

 

「(広商は)3年連続で甲子園で優勝、日本一となった。甲子園であまりにも広商が強い。中等学校野球連盟からアメリカ遠征を命じられた。(中略)そして、日本に帰ってみたら、夏の大会が終わっていた。そこでいっぱいハメられたというのに気が付いた」と稲垣は自身の主催する野球教室の講義で語っている。

 

 ことの真偽はさておくこととするが、夏の甲子園も球児たちの夢ではあるが、それと同じくらいアメリカ遠征も夢のような話だった。昭和初期の当時、アメリカに行くとなれば、現在でいう宇宙旅行くらいの思いがあったのだろう。のちにカープ二代目監督となる、あの逆シングルの名手・白石勝巳(敏男)は、職業野球の発足当時、巨人軍に入団したが、その理由が「アメリカ遠征に行けるから」というものだったのは有名な話だ。当時の人々のアメリカに馳せた思いはただならぬものがあったのだ。

 

 その夢が現実となり、アメリカ大陸に石本をはじめ広商ナインが立った。彼の地での記録、試合は昭和6年7月21日から、帰路に寄港したハワイ航路もあわせると9月5日まで組まれていた。おおよそ1カ月半の長期滞在で主に日系人二世によるチームとの対戦が多かった。バンクーバー朝日軍との試合を皮切りに、最終戦となるハワイ島でのフィリピン軍の試合まで計16試合を行い、11勝2敗3分けという、圧倒的な強さを見せつけた。

 

 このアメリカ遠征は石本の人生における特筆すべきことであっただろう。また、広大なアメリカ大陸では試合を行っただけではなく、その土地柄に触れ、またさまざまな風習を学び、のちの人生にも多大な影響を受けることになるのだ。

 

 少しばかり時計の針を巻き戻そう。

 

 広商ナインは7月10日、横浜港から貨客船「平安丸」に乗り、シアトルへと出発した。この11日間の船旅において、石本が選手個々の食事回数を綿密に記録していたのもユニークだ。船酔いにたたられながらも、きちんと食事をとれていた選手は、やはりレギュラーを張り、センターラインを守るなど主力選手として活躍していたのが、この記録からも証明されている。

 

 上陸後、試合の合間には現地の各地を見て回る社会科見学も行われ、これも石本ら広商一行の楽しみとなった。

 

 カナダ・バンクーバー市スタンレー公園では日本人義勇兵の慰霊記念碑を見学した。第一次世界大戦中、カナダ軍の名の下に多くの日系人がヨーロッパ戦線に赴いた。その日本人義勇兵のうち54名が尊い命を失った。銘板に刻まれた記録を見た石本はグッと目頭を押さえた。石本は、この時の思いを自著に記している。

 

<「いまこの異郷の地に寂しく瞑してゐる戦死者の義挙を思うと感慨無量である」>(『広商黄金時代』大阪毎日新聞廣島支局)

 

 広商が遠征で果たす役目の一つとして、遠く異国の地で奮闘する日本人に対する慰問の意味もあったのとされる。

 

 大臣並の歓待

 シアトルでは午前の練習の後、午後から海外協会の案内で海やワシントン大学、バラード運河などを見学した。このとき広商ナインの自動車を地元警察が先導した。パトカーに引っ張られた一行が、信号の赤青に関係なくシアトル市内をスムーズに移動できたのは言うまでもない。石本は道中、「これは痛快じゃのう」とつぶやき、著書にこう記している。

 

<「日本人の自動車隊に、このカップ(原文ママ)がつけられたのは、さきにロンドン軍縮会議に列席した若槻禮次郎・全権大使がシヤートル(原文ママ)に上陸した時のみで如何にわれわれ一行が特別の歓迎を受けていることか」>(『広商黄金時代』大阪毎日新聞廣島支局)

 

 この話を少し補足すれば、内閣総理大臣を2度務めた若槻禮次郎が、日本の軍艦の保有割合の協議のため、ロンドン軍縮会議に出席したのが、広商が遠征した前年の昭和5年であった。若槻も会議の直前にシアトルに立ち寄っているが、若槻同様の歓待であったのは、広商野球部にとって実に誇らしい限りだっただろう。

 

 行く先々で歓待は続いた。

 

 7月31日のことだ。カリフォルニア州の州都サクラメントにある浪花ホテルから、石本は現地での世話役を引き受けている武田政雄のオフィスを訪ねた。行ってみて石本は仰天した。なんとそこにはスタックトン、ローダイ、メリスビル、ウォールナッツグローブなどアメリカ大陸西海岸沿いの各都市にある広島県人会代表が詰めかけていたのだ。

 

 彼らは口々に石本にこう言ったのだ。「ぜひ、ウチと試合をやってほしい」。「ウチともやってくれないか」。立て続けに試合を申し込まれ、あれよあれよと言う間に、1週間で5試合という強行軍が組まれる勢いだった。さすがの石本もこの日程には参ったようである。すかさず、こう言って断った。

 

「我々は、試合が目的であることは当然ですが、見学による社会勉強も本意としております」

 

 だが、現地側も譲らなかった。それも当然であろう。あの王者・広商がやって来たのだ。甲子園で3年連続で優勝した広商と試合を行い、この王者を倒せば、自分たちが日本一ではないのか--。異国の地で奮闘する現地県人会の思いも良く分かる。ついには、「試合をやってもらえないならば、一日千秋の思いで待ち望んでいる広島県人たちにあわす顔がないではないか」と現地の世話人が言うに及び、ついに石本が折れた。

「分かりました。やりましょう」

 

 しかし、一週間で5試合という強行軍にいかに臨めばいいのか。遠征のために選手層は薄く、投手陣は灰山元治をエースとし、内野手を兼ねる浜崎真二の2人だけ。石本は考えに考え抜いた。前日までの4試合で、灰山が3試合、浜崎が1試合投げており、浜崎は投げない日は内野を守った。今後のスケジュールを考えたら無理はさせられない。

 

 県人会代表と協議した翌8月1日、強豪といわれたウォールナッツグローブ戦での先発投手に石本は奇策を繰り出した。さあ、広商ナインに向かってスターティングメンバー発表である。

 

「先発、オレ!」

 

 なんとマウンドに立ったのは、"石本秀一投手"であった。これは連戦が決定したため、翌日に控えた強敵スタックトン戦に備えて、エース灰山を温存するためであった。ただ、石本としても、選手時代は剛球投手としてならし、まだ男盛りともいえる33歳。そうやすやすと打たれはしまい、とそんな思いもあったであろう。また、1週間に5試合を組んでしまったことに対する石本の責任払いでもあったかもしれない。選手たちに自ら率先して範を示したのだ。

 

 試合は、力任せの投球をする石本にウォールナッツグローブ打線が襲いかかった。初回、3安打をあびて、4点を奪われた。スピードがのっていたにもかかわらずだ。このときのことを石本はこう記している。

 

<「船中で投球練習を行った私は多少スピードを増したので、真向から速球をもって押さえんとしたのが失敗だった」>(『広商黄金時代』石本秀一(大阪毎日新聞廣島支局)

 

 石本投手の米初勝利!?

 この現実を受け入れて、すぐさま修正する石本であった。やられたら、やりかえすとばかり、2回からは縦に落ちるカーブ、当時で言えばドロップを主体にピッチングを組み立てた。これが功を奏し、6回までピシャリとゼロ行進に抑えた。

 

 広商打線も石本の好投に応え、2回に2点を返し、5回に2点をあげて追いついた。さらに6回には1点差で勝ち越しを果たし、石本投手のアメリカ本土での初勝利かと、期待が膨らんだ。だが、この試合は事前の申し合わせにより7回制とされ、最終回、あと一歩踏ん張れず、石本は1失点。そして試合終了。石本に勝ち負けのつかない、5対5の引き分けで終えた。

 

 さて、アメリカ遠征の話はまだまだ続く。上陸から17日目となる8月6日。この日、石本を始め広商の一行は、サクラメント市にあるカリフォルニア州庁舎の見学をした。建物は白亜の洋館建てで石本はその大きさ、そして高さに圧倒された。
「う~ん、広島の物産陳列館(当時・のちの産業奨励館)の5倍はあるかのう」とつぶやく石本だった。

 

 州庁舎の中で聞いた話も石本にとって衝撃的な内容だった。「この議事堂は、かつて日本人を排除しようという『日本人排斥法律案』を議決した場所です」と説明を受けたのだ。

 

 明治時代からの日本の移民政策により、多くの日本人が、アメリカンドリームを求めて海を渡り、大地を耕した。勤勉に働く日本人が好まれる半面、稼いで成した財はすべて祖国で待つ親や子などへの仕送りに当てられたとされる。全てが日本のためか、とやっかむアメリカ人がいたとしても不思議ではない。とりわけ、アメリカ西海岸沿岸には、日本人街も多く、アメリカとして、法律でもって目を光らせたというわけだ。

 

 本国を離れた同胞のつらい日々を思いやり、石本は涙を流した。この見学のときのことを、著書にこう記している。

 

<「当時の日本人が州庁に押しかけて、無念のはがゆさを食いしばって悲憤慷慨した話を聞かされて、新たなる涙を催さざるを得なかった」>(石本秀一『広商黄金時代』大阪毎日新聞廣島支局)

 

 さて、この8月6日の夜、広商ナインは人生初の経験をした。ナイトゲームを戦ったのである。日本の初ナイトゲームは戦後になってからのことなので、当然、石本も初体験である。

 

 試合は、地元強豪のサクラメントとの一戦が組まれた。試合開始は夜の8時30分から。電灯の下で行われるプレーは、日頃と勝手が違ったが、炎天下から逃れたため、終始動きもよく、2回と5回に1点ずつを上げ、広商が終始リードした。エラーがらみで一時追いつかれはしたものの、7回表に騎本実の殊勲打が生まれ、逆転。3対2で勝利をおさめた。試合終了は日付も変わる直前の11時とあって、長い8月6日の夜となった。

 

 石本のアメリカ遠征は、人生初体験の連続であった。この時代、移民した日本人にとってアメリカは夢の大地であり、人生をかけた開拓の地でもあった。石本は各地で試合をこなしながら、様々なことをアメリカという国を通して学んでいくのだった。石本と広商ナインのアメリカ遠征記、次回も乞うご期待のほどを。

 

【参考文献】  『広商黄金時代』石本秀一(大阪毎日新聞廣島支局)、『広商野球部百年史』(広島県立広島商業高等学校)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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