前回に引き続き、石本秀一監督率いる広島商業(以下、広商)ナインのアメリカ道中の話である。石本と広商一行は昭和6年7月21日から、約1カ月半に渡る北米遠征を行い、試合漬けの日々を送った。明治、大正の時代から大国アメリカに渡り、奮闘してきた在米の邦人野球チームらとの対戦する中、石本は投手温存のために自ら先発を買って出るなど、勝負に情熱を燃やした。その一方で、石本が最も重要視していたのが、各都市での社会見学であった。異国の地で見て聞いて、そして触れたことから学び、吸収し続けることが、石本自身の見識を深めていった。のちに広島に誕生するプロ球団カープへの礎となっていくのだ。

 

 大国アメリカのスケール

 8月1日から8月7日の1週間で5試合という強行日程を終えたかと思うと、中1日おいて8月9日はフレズノ戦だった。試合結果は4対3と勝利をおさめたものの、灼熱の太陽にさらされながらの試合続きで、選手の疲れはピークを迎えていた。

 

 こうした中、石本以下広商の一行は、サザンパシフィック鉄道を使って、サンフランシスコへと移動する。ここでは一等寝台車に乗り込み、移動中の疲れを癒やした。オークランドの停車場に着くと、列車がそのまま渡船に乗せられたが、その時の驚きを石本はこう記している。

 

<汽車は突然三、四尺も低くなったと思うと人も貨車も乗せたまま、船積みになっている。汽車を乗せる渡船、その規模の大なること日本の関門海峡の比ではない>(「広商黄金時代」石本秀一・大阪毎日新聞廣島支局)

 

 アメリカ大陸を縦断する交通の壮大さに魅了された広商ナインを乗せ、フェリーはサンフランシスコへと向かった。サンフランシスコでは社会見学やショッピングを楽しみ、ひとときの休息を得たのであった。 

 

 サンフランシスコの見学において、石本は非常に興味深い話を聞いた。立ち寄った洋食店はシールロックといい、そこの店主は広島県備後地区出身の井原定吉郎氏だった。現地日本人が日本人排斥運動という苦境の中でいかにして、この土地に定住できたのか? 石本はそれを興味深く聞いた。

 

 この洋食店は、太平洋を一望できる絶景の一等地に建てられていた。井原氏によれば、昭和5年、欧米各国を周遊旅行中であった高松宮殿下がサンフランシスコを訪問された際、日本人経営の洋食屋に立ち寄ったのは、井原氏のレストランただ一軒だったという。母国を離れ活躍する人にとってみれば、何も勝る名誉なことだったであったろう。海沿いの絶景の一等地を与えられたのも、井原氏の並々ならぬ努力があってのことだった。

 

 アメリカ軍の軍艦から降りてきて、この洋食店に立ち寄る兵士たちを丁重にもてなすことで、周囲からの信頼を勝ち取り、市民権を得たというのだ。

 

 井原氏は石本との会話が進む中、「このあたりも10数年前から、日本人を排除する運動が激しかったですね」とポツリともらした。やはりアメリカは異国であった。勤勉に働き財を成している日本人は好まれなかったが、信頼を勝ち取った井原氏の話は、石本の心に深く残ったのだった。

 

 この日は、5千から6千人もの人が泳げるプール(注・石本の著書『広商黄金時代』によると「フライシヤーカー」のプールと記されている)や、動物園、水族館、博物館、子供のプレイグラウンドなど、あらゆる施設を見学して回った。このときプールを見た印象を石本はこう語っている。
<何んでも世界一を誇る米人のやる事はてんでケタが違ってゐる>(同前)

 

 数千人収容のプールに圧倒された後、ゴールデン・ゲート・パークにある日本茶園に立ち寄った。この茶園は山梨県出身の萩原五郎氏が経営しており、箱庭式の庭園をはじめ、櫓(ろ)のある門や、池にかかった反橋、茶室など、すべてが日本から取り寄せたものだ。それを聞いて、石本は驚いた。この時の様子を著書にこう記している。
<庭園を逍遥してゐると日本に帰つたような氣がする」>(同前)

 

 寄附金で賄われる巨大施設

 アメリカの地で日本庭園に触れるなど思ってもみなかっただろう。異国の地で日本の文化にふれ、この日の夜は宴席が設けられた。日本人倶楽部で太平洋貿易株式会社長、杉原軍造氏の招宴だった。杉原氏は広島県安佐郡深川村出身で、日本の貿易商としては、サンフランシスコ随一の地位を占めている成功者だった。
<かつては広商に多額の奨学金を寄附された事があるので、一層懐かしみを覚えた>(同前)

 

 石本はアメリカの行く先々で、奮闘する日本人と触れ合う中で、国を離れた郷土の出身者であっても、母校を思う心の深さを感じさせられた。

 

 さらに、8月12日は早朝からアラメダの飛行場の見学の後に、バークレー市街に出て、カリフォルニア大学を見学した。

 

 当時、カリフォルニア大学は、1万人の学生がいる大規模な大学で、ワシントン大学やオックスフォード大学と肩を並べるほどのものだった。バークレー市が発展しているのは、同大学があってこそと聞かされた。とりわけ、石本が驚いたのは、8万人を収容するスタジアム(蹴球場)や野外演芸場、2百万ドルを投じてつくられた図書館の建物の圧倒的なスケール感である。
<学校の施設は、もちろん日本の帝大や、早稲田、慶応の比ではなく、施設に投じた金額のみでも一千万ドル以上といわれてゐる>(同前)

 

 石本は施設に投じる莫大な金額を聞くだけでなく、さらに、この資金の出所や裏付けまでを聞き出している。さすが新聞記者あがりである。
<アメリカの学校がかくまで立派なのは、幾多の篤志家が莫大な金を寄附するからである>(同前)

 

 大国アメリカの大学のスケール感に圧倒されただけでなく、なぜ立派なのか、なぜ莫大な資金があるのかを石本はこの社会見学を通じて学んだ。篤志家の寄附によって大規模な事業をやってのけるアメリカを目の当たりにしたことが、のちに石本がカープ初代監督に就任し、草創期の困難に遭遇した際、有形無形の思考能力を発揮することにもつながったのではないだろうか。

 

 石本はこのときの気持ちをこう述べている。
<米人が公共事業に対して寸毫も金を惜しまず社会奉仕の概念に強いのは聞いただけでも羨ましくてならぬ>(同前)

 

 アメリカ人が、社会奉仕の概念の強さとして、寄附をする行為に触れながらも、石本は飾ることなく、正直に羨ましいと思いをしたためている。石本ら一行はフォードの自動車工場も見学した。当時、成長著しいアメリカの自動車産業の製造現場を見た広商のエース・灰山元治(のちにカープ二軍コーチ)は、こう驚いたという。
<「部品がチェーンに乗って上っていき、出て来た時には車が完成してるんだから、びっくりしましたねェ」>(「情熱と信念の野球人」~石本秀一物語~・中国新聞・昭和56年1月30日付)

 

 奇しくもこのフォードが、のちに広島のカープを支えるマツダと資本提携に踏み切ったのは1979年のことである。実にその約半世紀前に、石本はフォードの工場を訪れている。これをフォードとカープの歴史的な接点だとするならば、ドラマチックであることこの上ない。

 

 先発投手のやりくり

 さて、そろそろ野球に話を移そう。フォードの工場見学などで、試合の疲れを紛らわせた灰山だったが、石本は8月9日のフレズノ戦で完投したこともあり、灰山を休ませる決断をした。8月12日のアラメダ戦は、浜崎忠治(のち中部日本で投手など)をマウンドに送ったのだ。

 

 アラメダは、アメリカ西海岸沿いの街で、邦人も多く、野球も盛んであった。このチームは、広商と対戦する数日前にスタックトンと対戦し、勝利を飾っている。ちなみに広商はスタックトンには敗れたばかりだった。相手を上と見て、さてどうするか--。こうした事前情報にもぬかりがないのが、石本の野球哲学の一つでもある。

 

 広商は邦人チーム・アラメダの六谷投手の立ち上がりを攻め初回に2点先制した。3回にも満塁から押し出しフォアボールを選び、3点をリードした。

 

 危機を感じたアラメダは他チームからの助っ人である邦人屈指のエース増田をマウンドに送り、以降の広商をピシャリと抑えた。

 

 これで流れが変り、3回にアラメダの打球が草むらに入り込み、幸運なホームランとなり、それを機にジリジリと追い上げられ、4回にも内野安打、送りバントの後、増田がサード頭上を越すタイムリーを放ち、広商は1点差に詰め寄られた。

 

 そして迎えた最終の7回(規定により7回制で行われた)、アラメダは内野安打とエラーで一、二塁として、送りバントの後、犠牲フライ。ついに広商は同点とされた。続くバッターをセカンドフライに打ち取ったが、ここで痛恨のミスが出た。この試合、セカンドはエースの灰山が守っており、慣れない守備から落球……。悔しいサヨナラ負けとなった。

 

 敗因は選手たちの疲れにあったことは明白だった。8月に入ってから12日間で7試合。翌8月13日、石本はやむを得ず試合中止を申し入れた。実はこの日はサンノゼの邦人チームから試合の申し出があった。だが、「今回はご勘弁を」とばかり、石本が懇願するように断り、試合を中止させ、社会見学のみとした。著書にはこうある。

 

<選手が中部加州の酷暑にあてられて、極度に疲労してゐるのを見るとなんとか対策を講じなければならない。結局サンノゼの試合を中止して元気を挽回するほかよい手段がないので早速サンノゼの県人会に交渉を開始した>(「広商黄金時代」石本秀一・大阪毎日新聞廣島支局)

 

 アメリカ遠征で、石本が一番に気を配ったのは、選手らの体調管理であった。中でも、投手起用にはその思想が大きく感じられる。試合結果と、投手の登板回数は下表のとおりである。

 

 エース灰山は、一部リリーフ登板はしたものの、先発のマウンドに立つ日には、最低、前の先発試合から2日ないし、3日程度は必ず空けている。その平均値を出すと3.42日であり、当時の中等野球では画期的な先発ローテーションを実施している。甲子園大会において準々決勝翌日に休養日が設けられたのは2013年の夏から。今年から準決勝翌日にも休養日が設けられた。

 

 当時の石本は、スパルタ指導とか、精神性を重んじる魂の野球などといわれたが、こうした投手の登板をデータ化しながら、近代の高校野球以上にいかに休息の大切さを考えていたのかがうかがえる。

 

 

 ナイターに続く初体験

 サンノゼからの移動は、列車でサンフランシスコへ引き返してからとなった。途中、アラメダでの飛行機遊覧の予定が中止となったことで選手には落胆の色が見えたため、石本は大英断を下した。

 

「飛行機に乗ろうじゃないか」というのだ。オークランドの飛行場からロサンゼルスまで、10人乗りの飛行機2機を借り切って、空の旅をすることになったのだ。8月14日、石本にとっても広商ナインにとっても人生初となった空の旅である。

 

 陸路ならば、丸1日かかるであろう600キロの距離を一気に2時間半でひとっ飛び。選手たちは人生で初めて経験する空の旅に期待をふくらませ、朝から大はしゃぎだった。このときの様子を石本はこう記している。

 

<未知の世界である天空をほしいままに征服せんとする飛行機旅行の快味を満喫せんとする選手たちは、十四日沸暁から寝床をはね起きて>(同前)

 

 オークランドの飛行場に到着した広商一行を、すでにプロペラを回しながら駐機している飛行機が迎えた。「おお!」と期待が高まる中で、不安も交錯した。
「まさか墜落するなんてことはないじゃろうな」「せめて写真だけでも撮っておこうではないか」と、プロペラ機の前でパシャリと記念撮影をした広商一行であった。

 

 この年、多くの飛行家が大空に挑んでいた。アメリカの飛行家である、かのチャールズ・リンドバーグが大西洋単独無着陸横断飛行(昭和2年)に続いて、北太平洋横断飛行をやってのけた。

 

 石本もアメリカ往きの船旅で、こうした飛行家のニュースに触れていたことが著書にある。
<巴里東京間無着陸直線飛行の新記録を樹立せんとする佛飛行家ルブリ・ドレー両氏が、今朝四時四十三分ルブルジェを出発壮途に上つた>(同前)

 

 このパリ東京間の飛行は未遂に終わったものの、まさに"空の時代"を迎え、多くの冒険家が大空に翼を広げ、夢を抱いた時代だったのだ。

 

 こうした風聞から、何事も学ぶ石本はどうだったか。もちろん心は躍ったが、体の恐怖は震えとなって現れた。飛行機に乗り込んだものの、石本は一抹の不安を覚えた。「革の服は着ないのか、飛行帽はかぶらんのか、飛行用のメガネはかけんのか」と、用心に用心を重ねる石本は、普段着で乗れる旅客機ながら、航空部隊の兵隊さながらの装いで乗ることを想像していたようだ。
<同乗者の要する装いは一切興へぬのでどうなるのかと案じてゐた>(同前)

 

 何事も準備を怠らない石本らしいエピソードと言えなくもないが、監督という立場からか、機内では無理やり平静を装っていた。

 

 轟音とともに離陸を開始した広商一行を乗せた飛行機は、滑走路を加速しながら一度だけ大きなバウンドをした後、すぐさま立て直し、そのまま大空へと一直線。タイヤがふわりと浮き、目指すはロサンゼルスである。アメリカ大陸で残す試合はあと2つ。大騒ぎの広商一行の空の旅の後日談も含め、次回のカープの考古学にも乞うご期待。

 

【参考文献】  『広商黄金時代』石本秀一(大阪毎日新聞廣島支局)、「中国新聞連載」「情熱と信念の野球人」~石本秀一物語~(昭和56年1月30日)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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