小学生の時にサッカー・全国大会を経験した福本拓海は、地元の松山市立城西中学校に進学した。この頃になると、読書好き、歴史好きに拍車がかかっていた。
(2019年9月の原稿を再掲載しています)
「ずっと本を読んでいて、影を潜めていました。クラスメイトが僕のすぐそばで“福本はどこの中学に進学したの?”と話しているくらい、おとなしかったみたいです」
歴史に関する本や、時代小説に没頭した。そんな彼は中学生活の思い出のひとつに京都、奈良、大阪を巡った修学旅行をあげた。目をキラキラさせながら、当時を振り返った。
「修学旅行で初めて京都に行きました。二条城、金閣寺、清水寺……。歴史的建造物がたくさんあるじゃないですか。そういうところを巡ることができて楽しかったんです。清水の舞台の有名な写真があるでしょう。あのアングルはやっぱりすごかったです。とても印象に残っています。最終日はユニバーサルスタジオジャパンに行ったんですが、“そこはいいから、もう一日京都を回らせてくれないかなぁ”と思っていたくらい(笑)」
趣味がこうじて、日本史が得意科目だった。思春期の少年ならばテーマパークの方が魅力的に映りそうだが、福本は違ったようだ。
中体連ではなくサッカースクール
城西中学に進学したもののサッカー部に属さずに、松山市内を拠点とする帝人サッカースクールに入団した。このスクールは幼稚園児、小学生、中学生を対象にしている。比較的、大きな規模のサッカースクールでナイター照明も完備している。サッカーに打ち込むにはうってつけの環境だ。
中学1年生の福本少年は入団後、持ち前のテクニックとスピードを武器にトップチームでFWのレギュラーとして起用される。小学校のサッカーと中学校のサッカーにギャップを感じていたが、要領の良さでカバーしていた。
「フィジカルの強さが全然違いました。相手のセンターバックはガタイの良い人が多い。潰されないように、スピード勝負に持っていくことを意識していました」
帝人サッカースクールでは2年時にクラブ選手権で全国大会出場。3年時には同選手権と高円宮杯の両方で全国大会出場を果たした。
父・雅則も「せっかくやるなら上を目指そう、と帝人サッカースクールを選んだ。とても良い選択だった」と語り、思い出話を聞かせてくれた。
「夏の大会でした。その時に祖父が亡くなり、お通夜と告別式が大会期間中だった。徳島ヴォルティスジュニアユースに勝てば全国行きが決まります。その試合で拓海がハットトリックを達成したんです。高円宮杯でも徳島の川内中学に勝てば全国。0-2で試合を折り返したんですが延長の末、3-2で逆転勝ち。この試合で拓海が2得点したんです。この時も褒めましたねぇ」
夢はサッカー指導者
ここぞの場面でゴールネットを揺らした福本。エースとして大車輪の活躍を演じた。これだけ才能があり、全国も経験するような少年ならば「将来の夢はサッカー選手」と言いだしても不思議ではない。だが、福本の将来の夢は早い段階から「サッカーの指導者になること」だった。
指導者になることを視野に入れ、将来的には大学進学を目指していた。大学進学から逆算すると最適な学校は済美高校だった。愛媛FCユースも選択のひとつにあったが、練習参加をして肌に合わないと感じたのだろう。進路を済美高校一本に絞った。
済美高校からは中学3年時に練習試合を行った際、関心がある旨を伝えられていた。
「僕が答えを出すのを待ってくれていた。 “済美に行きます”と返事を出して、スポーツ推薦での受験となったんです」
2013年4月、志望校に晴れて入学した。これまで同様、サッカー部に入部後すぐにトップチームの試合に絡み始める。スタートは誰が見ても順調。学年が上がるにつれて中心選手になる。傍から見れば順風満帆なはずだったが、福本自身は心にある“もやもや”を抱えながらプレーしていたという。
(最終回につづく)
<福本拓海(ふくもと・たくみ)プロフィール>
1997年8月3日、愛媛県松山市出身。エルピスSA-宮前SC-帝人SS-済美高校-慶應大学。2つ上の兄の影響でサッカーを始める。済美高校では1年時からトップチームの試合に出場した。2016年4月に慶應大学ソッカー部に入部。今季からレギュラーに定着。1トップ、もしくは2シャドーの位置でのプレーを得意としている。身長175センチ、体重67キロ。
(文・写真/大木雄貴)

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