愛媛県松山市で育った福本拓海は地元のサッカー強豪校・済美高校に進学した。福本は入学して間もなく、愛媛県の国体メンバーに選ばれる。彼が国体の選抜に合流している間、チームは夏に東北遠征に出向いた。夏が過ぎ、チームに合流。当時の済美高校はハーフタイムに必ず前線のメンバーを入れ替えていた。時には3枚しかない貴重な交代カードを2枚切る大胆な策に出た。福本は1年生ながら途中出場を果たすなど、出場機会を得ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 冬の新人戦は怪我がちだったものの、メンバー入り。父・雅則は当時を振り返る。

「そろそろ新人戦が始まるなという時期に“調子はどうだ”と聞いたんです。拓海は“オレ、怪我しているからメンバーに入れるかもわからん”と。拓海の1つ上の学年は実力者揃いだった。それでも試合観戦に行くと、後半から拓海が出場したんです。背番号を見て驚きました。済美のエースナンバー14を背負っていたんです。それを見た時は鳥肌が立ちました。先輩方がみんな一致で“14番は拓海やろ”と言ってくれたみたいなんです」

 

 この後、父はボソリとつぶやいた。

「でも急に、得点が激減したんです」

 

 期待を背負う者にしかわからない重圧だろう。福本は徐々に仲間の信頼を集め、中心選手になる。学年が上がると、センターフォワードから2列目のトップ下や3列目のボランチを担う。これらが影響し、彼の心は分厚い霧で覆われてしまう。

 

「1年生の時は本当にフレッシュな気持ちでFWとしてガンガンやっていました。学年が上がり、ポジションも中盤になり役割が増えた。中心選手になると自分勝手なプレーだけじゃダメ。周囲の選手への気遣いや、自分が点を取るだけじゃなくて、他の選手に点を取らせないといけない。“あぁ、自分、調子悪いな。あんまり良いプレーができないな”と思うようになりました」

 

 これは私見だが、この頃から福本はストライカーとしての気質があったのではないか。当時、顧問には「どんなプレーも高いレベルで平均的にこなせる」と評価を受けていた。それがゆえに「どこのポジションで使えばよいか迷う時がある」とも言われた。チームカラーがドリブル主体のため、福本はボールを持ったらドリブルで持ち上がることが求められた。今の福本とは真逆のスタイルだ。彼はボールを持つ時間は短いが効率的な動きでマーカーを引きはがし、シンプルにゴールネットを揺らす。

 

 高校生の頃はオフザボールの動きが生かしにくい戦術と、チーム全体のことを考えなければならない立場が彼を苦しめた。とはいえ、それを放棄するとチームが勝てないことは明白。ひとりの青年は最適解を見つけられないまま、最後の高校サッカー選手権は愛媛予選準々決勝で涙をのんだ。

 

 慶應一本に絞った大学受験

 

 将来はサッカーの指導者を目指し、大学進学を考えていた福本。当初は体育学部のある大学を考えていた。しかし、顧問に薦められたのは体育学部のない明治大学と慶応義塾大学。どちらもサッカーの名門として知られていたこともあり、福本は興味を持った。済美のサッカー部から過去、慶應大学には久保飛翔らが進学していた。そのつながりもあり、慶應大学のソッカー部(サッカー部)の生徒が高校生向けに学部説明会を開いた。その説明会に参加し、“面白そうな大学だな”と感じた福本は3年生の6月半ばに進路を慶應大学に絞ったのだ。

 

 AO入試での受験。慶應大学は1期と2期に分けてこの制度の受験を行う。1次は書類選考。それをパスすると面接試験。1次の書類審査は通ったものの、2次試験の面接で不合格となった。

 

「面接がボロボロでした。どうしても苦手で……」と福本。この時点で10月に入っていた。

 

 慶應大学のAO入試2期を受けるか、他の大学を受験するか。福本は迷わず前者を選択した。1期同様、書類審査は通過。2次の面接試験のため父とともにキャンパスがある神奈川県藤沢市に入った。面接試験当日の出来事を父・雅則が笑いながら語った。

 

「面接当日、私は鶴岡八幡宮にお参りに行く、と決めていました。“その前にご飯でも一緒に食べよう”となったんですが……。私が粗相をして頼んだ食事を落としてしまったんです。それで私は“拓海、ごめん! でも、悪い運は全部お父さんが引き受けたから、拓海は大丈夫。たぶん、合格する!”なんて言って送り出しました(笑)」

 

 面接官は福本の得意なサッカーの質問をしてきた。父が不運を被ったことが吉と出たのだろう。

 

 合格発表は12月上旬、済美高校の期末試験日。福本がテストを受けていると教室の後ろのドアの人影に気がつき、視線を向けた。福本の担任がドアの窓ガラスから顔をのぞかせ、ガッツポーズを作った。

 

「慶應、合格!? と思いました。期末テストを受けているのにもう頭の中は真っ白(笑)。テストが終わり職員室に行くと担任の先生はいなかったんですが、他の先生方が“おめでとう! 合格だよ!”と教えてくれました」

 

 苦しんだ3年間の末――

 

 福本が慶應大学ソッカー部入部当初、A、B、C1、C2というカテゴリーに分けられていた。引っ越し準備の関係で新入生による紅白戦に出場できなかった彼は一番下のカテゴリーに入った。だが、その翌日にいきなり昇格を経験する。

 

「パススピード、動きのスピード、判断のスピード……。すべてが全然違いました。すぐに一番下に落とされると思いました」

 

 懸命のアピールが奏功し、C1に留まった。そしてインディペンデンスリーグではセンターフォワードとしてレギュラーに定着し、得点王に輝いた。2年生のシーズンインはAチームで迎えた。開幕戦こそ途中出場を果たしたが、これ以降はベンチ入りさえもできず、歯がゆい日々を送った。そしてBチームに降格し、さらにCチームがインディペンデンスリーグ2部降格の危機に際していたこともあり、Cチームに戻り、1部残留に貢献した。

 

 以降、3年時には肺気胸を患うなど、中々Aチームに上がれない。今までの経歴とは裏腹な経験。この苦しい日々を乗り越えて彼は今、慶應大学ソッカー部の攻撃を牽引する存在になった。

 

 父・雅則は息子にこう、エールを送る。

「小学校の頃から“サッカーの指導者になる”とブレずに言い続けている。将来の夢が一度も変わらない点は“アイツ、凄いよなと”長男も三男も認めています。幼稚園の時からずっと本当に良い環境でサッカーをさせてもらっています。拓海は仲間に恵まれているなと感じます。サッカーを通じて、精神的にもたくましくなったし、いろいろ勉強させてもらっている。もし、指導者になったら仲間や相手をリスペクトする気持ちを大事にする指導者になって欲しいです」

 

 幼い頃からエースの重圧と戦ってきた。期待される者にしかわからない苦しみも、試合に出られない苦しみも味わった。喜び、痛み、苦しみを若くして彼は経験している。そんな福本には小さい器に収まって欲しくない。教員免許があろうが、なかろうがサッカーを通じて人間形成をする素晴らしい教育者になる素質がある。ひとりの青年の未来に、私は期待している。

 

(おわり)

 

<福本拓海(ふくもと・たくみ)プロフィール>

1997年8月3日、愛媛県松山市出身。エルピスSA-宮前SC-帝人SS-済美高校-慶應大学。2つ上の兄の影響でサッカーを始める。済美高校では1年時からトップチームの試合に出場した。2016年4月に慶應大学ソッカー部に入部。今季からレギュラーに定着。1トップ、もしくは2シャドーの位置でのプレーを得意としている。身長175センチ、体重67キロ。

 

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(文・写真/大木雄貴)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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