広島商業(以下、広商)は昭和4年と5年の夏の甲子園大会で優勝し、さらに昭和6年春も制覇した。そのセンバツ大会優勝の褒賞旅行としてアメリカ遠征が与えられ、遠征中は日本からの移民が多かった西海岸沿いの都市の邦人チームと試合の連続であった。その中で監督の石本秀一と広商ナインはアメリカで排日運動にさらされる中、強く生きる同胞らとの交流の役目を担った。このアメリカ西海岸を縦断する旅も、いよいよ終盤を迎えた。

 

 アメリカの空を飛ぶ!

 さて、前回の締めくくりは「広商一行が初の飛行機に乗る」ところまでを書いた。この遠征の中で石本を始め、広商一行が、とても楽しみにし、また興奮したのがこの飛行機搭乗だった。サンフランシスコ州オークランドから、カリフォルニア州グランデールまで。まずは初体験の空の旅について記しておこう。

 

 石本だけでなく広商ナインにとっても人生初であり、時代の先駆けとなる旅客機での移動である。離陸の瞬間まで、体中、恐怖と緊張感に包まれていた。ところが、アメリカの大空に舞い上がると石本は気も心も大きくなった。西海岸に沿って南下した時の気持ちを著書でこう述べている。

 

<ぐんぐん上昇して忽ち白雲の上に出た。見渡す限り雲の波が五色の光彩を放つて絵もいはれぬ美観だ。禁断の天空を征服したものみに与えられるこの快味>(『広商黄金時代』石本秀一著・大阪毎日新聞廣島支局)

 

 あたかも大空を手にしたかのように、大きな気分になる石本である。さらに、投手の灰山元治や内野手の太田稔らにあっては、よほど心地よかったのだろう。いびきをかいて寝入ってしまったほどだった。

 

 シエラネバタ山脈の峰から峰に移る際、風速や気圧が変わったのか、一瞬機体が揺れ動きヒヤっとした場面もあったが、2時間半の空の旅を存分に満喫した。一行を乗せた機体は着陸態勢に入り、降下するにつれ地上の木々や電信柱が見えてくる。さらに高度を下げ、機体が滑走路に一度バウンドしたかと思うと、次の瞬間には、うまくバランスを取り戻した。次第にゆっくり進み、飛行機は無事に着陸した。機内ではどうであろう。「バンザイ。バンザイ!」の雄たけびが上がった。

 

 石本は著書にこう記している。
<アメリカに来て一番大きな土産話を作ったと今更のごとく飛行機旅行を敢行したことが無駄ではなかったと思った。>(同前)

 

 石本にとっても、広商ナインにとっても、人生最高の出来事となった。

 

 翌8月15日、午後からのロサンゼルス軍との試合を控え、社会見学は午前中のみとなった。まずは、午前9時からの商工会議所の訪問に始まり、そのまま百貨店のあるメインストリートで、買い物を楽しんだ。

 

 5つもの百貨店が軒を連ね、最初は圧倒されながらも、お土産を買ったり、自分のモノを買ったりと楽しんだ。ここで、石本が注目したのは、店員らの応対の良さである。例えわずかな買い物であっても、見下すような様子がないのは当然ながら、サービスという点においてとても親切であった。ひとつひとつ英単語を並べる選手らに、店員たちも親切に、懸命に説明してくれたのだった。

 

<英語のよく話せない選手らに対し、理解するまでいろんな単語や身振りで説明して呉るので、選手達もしまひには店員のいつてゐる意味がおぼろげにも分かり得心して買物ができた。>(同前)

 

 お土産の準備も整ったことから、気持ちの余裕が出たのか、広商ナインは夕方からのロサンゼルス軍との試合に備え、早めの午後3時に、球場(注・『廣商黄金時代』にはホワイトサックス球場とある)入りして練習を始めることとした。

 

 石本はこの日の試合に強い思いで臨んでいた。というのも、遠征前の同年6月、ロサンゼルス軍は日本に遠征してきていた。その時、甲子園球場で一戦を交えており、実はこっぴどくやられていたのだ。勝負事となると、燃え上がるのが石本という人物である。

 

「2度も負けるわけにはいかん」という強い思いは、いきなり初回の攻撃に表れた。先頭打者の久森忠男が、いきなりレフト線上に弾き返してツーベースヒットとした。この後、内野ゴロの間にランナーを三塁に進め、広商が押せ押せ。だが、後続が抑えられ先制はできなかった。

 

 しかし、三回。広商はランナー一塁の場面で、送りバントを試みた。これを相手がファンブルし、オールセーフで一、二塁となった。ここで久森がセカンドゴロに打ち取られるが、投球と同時にランナーがスタートしており、二、三塁とした。続く二番・鶴岡一人の打球はショートゴロだったが、三塁ランナーの騎本実がうまくスタートを切って、待望の先取点をあげた。現代野球で言う"ゴロゴー!"である。

 

 少ない得点を、そつなく守り抜くのが石本野球の真骨頂である。1点の援護をもらった超エース級と言われた灰山のピッチングは冴えていた。1対0のまま8回、ロサンゼルス軍の攻撃を迎えた。

 

 2本のヒットなどで、1死二、三塁とされ、ワンヒット出れば逆転という絶対絶命のピンチ。ここでロサンゼルス軍は奇策に出た。ピッチャー灰山の投球と同時に、三塁ランナーがスタートしたのだ。バッターの中村が灰山のボールを強振。転がれば同点、内野の頭を越されれば逆転である。しかし、バットは空を切り、三振。三塁ランナーもタッチアウトで仕留め、無得点で乗り切った。

 

 粘りを見せるロサンゼルス軍は、9回、一番の杉がツーベースヒットで出塁し、同点のランナーを出した。しかし、反撃もここまで。ここ一番に強い灰山が後続を断ち、ゲームセット。見事な完封勝利で甲子園球場での雪辱を果たしたのだった。

 

 翌8月16日は、ロサンゼルスから約50キロ離れたホワイトポイントへ移動した。太平洋が見渡せる絶景の下、現地の広島県人会の主催によるピクニックが行われた。この日集まったのは5000人(*1)。その半分は女性で、二世となるうら若き女性も多かったため、10代後半の選手らは、妙に照れてしまい、うれしくもあった。

 

 さらに選手たちが喜んだのは、昼食に握り飯が準備されていたことである。久々の日本食とあってむさぼりつくように食べたのは言うまでもない。式典では広商ナインらが舞台に上げられる一幕もあり、広商側から山崎吾一後援会長が挨拶に立った。30分を超えるスピーチに選手からはため息が漏れたが、現地の広島出身者は違った。故郷・広島の話とあって涙ぐむ人の姿もあった。余興ではオペラの披露や、老いも若きも参加するという運動会も催され、終日にぎわい、広商ナインも楽しんだのだった。

 

 ハリウッドスターに堂々の石本

 8月17日、一行は世界一の映画の都ハリウッドを訪れる日だった。

 

 石本は大の活動写真(映画)好きだった。広商一行の案内役をかってでてくれたのは、ハリウッド俳優のジョージ桑原だった。桑原はハリウッドでは早くから名を知られていた早川雪洲らと並び、ひときわ輝いている存在であった。台頭するきっかけとなった作品には「イエロー・ポーン」(1916年)、「アフター・ザ・ストーム」(1928年)がある。彼が直接案内をしてくれるとあって、願ってもないひとときを過ごした。

 

 桑原がハリウッドについて石本らに解説を始めた。映画会社のパラマウント社はかつて6万円の資本金からスタートしながら、現在の資本金は8億円にもなる成長著しい会社であること。ハリウッドには撮影上が65カ所、映画会社は130社、それらが制作する映画は1年間で3000編。さらに俳優の給料が1年間4億円。パラマウント社だけでロケに必要な土地を約30万坪所有していること、など。

 

 桑原の説明を聞きながら活動写真好きの石本は、アメリカ映画界の圧巻のスケールに驚かされていた。当時、日本で上映されていた「最後の命令」(1928年)という映画の中で、汽車が衝突するシーンがあった。石本は実際に使われたロケ現場を見せられ、最初は映画とあってトリッキーに作られているかと思いきや、そのリアルさに驚かされたという。

 

<かくまで巧妙にできているとは思はなかった>(同前)

 

 石本は早くから活動写真を見る習慣があった。これは、後々に詳しく話すとするが、過去に見たシーンをしっかりと憶えているのも石本の特徴の一つである。

 

<規模の大きなこと、セットの緻密なこと到底蒲田撮影所の比ではなく極端にいへば月とすつぽんの違いがある>(同前)

 

 ハリウッドを案内されている最中、石本はある男とばったり出会った。このときすでにハリウッドで眩いばかりのスポットライトを浴び、後年には映画『恋人よ帰れ』(1961年)、『野生の叫び』(1935年)、『チャップリンの独裁者』(1940年)など多数の作品に出演したハリウッドスター、ジャック・オーキーである。

 

 石本はその時の感激を著書にこう記している。
<お馴染みのジャックウ、オーキーにぱつたり会つて敬意を表することができたことは嬉しかった>(同前)

 

 すれ違う瞬間まで、只者ではないオーラを発していたハリウッドスターにも石本は物おじせず敬意を示したようだ。臆することなく堂々と振る舞えたのは、広商を率いて3度の全国優勝を成し遂げ、アメリカに乗り込んだ後の試合でも好成績を納めていたことも理由のひとつだっただろう。

 

 アメリカ大陸での最終戦となるガタプールとの戦いは8月20日に行われた。ガタループはロサンゼルスとサンフランシスコのほぼ中間にあり、移動は車で当時は6時間近くかかった。選手らはうんざりという感じであったが、石本だけは違った。石本がこうした移動にも強かったのは体力が強靭であったことと同時に、新聞記者経験のある石本は移動中も道中すべてのものに目を配る、そうした旺盛な好奇心が移動の疲労など寄せ付けなかったのである。

 

 ガタループでは、尾道市から移住していた荒谷節夫の農園を見学し、試合は午後からであった。ガタループ戦は、その荒谷野球団の二軍とあって、比較的楽な試合が予想されたため、エース灰山を温存し、2番手の浜崎忠治をマウンドへ送った。二軍とあって、少しばかり気が緩んだのか、先制をされたものの、打棒が炸裂し、8対2と圧勝した。

 

 このガタループ戦でアメリカ大陸での全ての試合を終えた。全13試合において、8勝2敗3分の好成績で、サンフランシスコに戻った。サンフランシスコでの拠点は安藝ホテルであり、ここを長期宿泊の拠点としていた。遠征の記念にホテルの前で記念写真も撮った広商一行であった。

 

 ここで、時代を現代に戻そう。
 令和元年の夏、広商は甲子園に16年ぶりに出場した。大会期間中、広商の宿舎にこの安藝ホテルで撮った写真が届けられるという奇跡的な話が報道された(毎日新聞デジタル2019年8月9日更新)。「88年前の広商野球部 北米遠征の写真発見 学生服姿、現地宿舎前で」と題された記事のことは読者の中にも覚えている方も多いのではないだろうか。

 

(写真:昭和6年8月11日、安藝ホテル前にて。この写真は大津市在住の田中理子さんが、広商に寄贈したもの。毎日新聞の記事によれば<田中さんの祖父の義妹が、同ホテルを経営していた>。石本の著書『広商黄金時代』では広島県佐伯郡原村出身の片岡一郎氏の経営とある。)

 写真には実に88年前の石本監督を始め、広商ナインが写っており、安藝ホテルの玄関には、「広島商業学校野球団本部」と看板が掲げられている。

 

 届けられた写真を手にした荒谷忠勝監督は、後の筆者の取材に対し、「甲子園大会に出るまでの試合には、奇跡的なことの連続でした。さらに驚いたのは(88年前の)アメリカ遠征の写真が宿舎まで届けられたことです。関係者の方にこれほどまで甲子園出場が喜んでもらえるとは思わなかった」と言葉を弾ませた。

 

 アメリカ遠征に話を戻せば、この遠征時、広商ナインは写真以外にもある逸品を残していた。それはサインボールである。

 

 当コラム第3回に紹介した広商OBでアメリカ遠征の内野手でもあった保田直次郎の子息・昌志氏が長年、家宝として大切にしているものを実際に見せてもらった。

 

(写真:左側に投手「灰山元治」。中央に内野手「鶴岡一人」。右側に監督の「石本秀一」のサインが読み取れる<所蔵・保田昌志氏>)

 ボールにはこのアメリカ遠征メンバーの名前が記され、日付は1931年(昭和6年)8月となっている。当時、日本に職業野球(のちのプロ野球)は誕生していない頃であり、サインボールという発想がなかなか生まれにくい時代に残した、かけがえのない逸品であろう。

 

「我々がアメリカの大地に立った証を記そうではないか」とばかり、サインを書いたのは想像に難くない。昭和初期を生きた若人らに、実に粋なセンスがあったことがうかがえる。

 

 昭和6年8月22日。石本監督以下、広商ナインはアメリカ大陸を離れ、次なる目的地であるハワイへ向かった。ハワイでは3試合をこなす広商である。石本のアメリカ見聞の旅もいよいよクライマックスである。
(つづく)

 

【参考文献】 『広商黄金時代』(石本秀一・大阪毎日新聞廣島支局)
【注*1】これ以降も含み、文中の人数や金額、データはすべて『廣商黄金時代』(石本秀一・大阪毎日新聞廣島支局)より引用した。

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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