アメリカでの邦人チームとの試合を8勝2敗3分で終え、昭和6年8月22日、サンフランシスコの港を出た広島商業(以下、広商)野球部一行が次に向かったのはハワイである。ハワイへの船旅は7日間に及んだ。石本秀一ら広商一行は総重量1万4000トンクラスのタービンエンジン船・春洋丸に身を任せ、ホノルルの港を目指した。

 

 ゴルフ初体験

 昭和6年8月29日、船がハワイの港に到着した。と、同時に広商一行を驚かせる出来事があった。桟橋に停泊した春洋丸の周りにカナカ族ら原住民が集まってきたのだ。群れをなして船を取り囲んだ彼らは何かを要求したいた。そう、お金である。

 

 船の乗客ら周囲の人もそれを察したらしく、小銭を投げる。石本も仕方なく小銭を取り出して、その群がりに投げた。選手らも続いた。投げられた小銭をうまく手でキャッチする原住民もいれば、海の中に落ちる小銭を追って潜る者もいた。この光景に石本は大変驚かされたようで、自著『廣商黄金時代』(大阪毎日新聞)でこう記している。

<鯉が争うやうに水中にもぐり錢を口にくはへて浮き上がって来る>

 

 いきなりの"歓迎"に驚いた広商一行を、埠頭では約20数名の広商卒業生(石本の同級生である)や、廣島県人親交会、廣島市人会、商業会議所の代表者らが出迎えた。船を降り立ってからすぐに華麗なレイを首にかけられ、石本は驚くばかりか、照れくさくもあった。「こ、これがハワイなのか!」と、石本を始め選手らはアメリカ大陸に続き驚きの連続であった。

 

 拠点となる山城旅館に向かい、石本はゴルフに誘われた。もちろん人生初体験である。現地の住友銀行・村井支配人の招待を受け、広商一行から山崎吾一後援会会長と森元博副会長が参加した。森元は広島のゴルフ界では元老ともいわれるほどの腕前の持ち主であるが、山崎は石本と同じくゴルフは全く初めてだった。

 

 連れて行かれたのは海辺に面した、頬を海風がなでるように吹く最高のロケーションを持つワイキキのゴルフ場だった。石本は一歩一歩、芝生の感触を確かめるように初めてのゴルフを楽しんだ。著書にこうある。
<一歩々々軽く足を踏み占める毎にふんわりとへこむ芝生の感触は何ともいへぬ快感を覚えた>(同前)

 

 18ホール・6800ヤードのコースで、石本のスコアは112であった。初体験にしてはまずまずで同行者から「さすが」と称えられたのだった。ちなみに森元副会長は98、山崎会長は159。村井支配人は110であった。
<初めての試みとしては上出来であり、将来大いに見込みがあると、お世辞にも褒められて見ると何だか愉快だつた>(同前)。石本は初めてのゴルフを大いに満喫したようである。

 

 さて、本題に入ろう。ハワイで石本率いる広商ナインは、8月30日、ホノルルスタジアムで日本人学生連合軍と対戦した。ハワイ大学の選手や、ハイスクールの選抜選手らの連合チームとあって苦戦が予想されたが、灰山元治の投球が冴え、6対2と危なげなく勝利した。

 

 試合後、石本と選手らは料亭「春潮樓」で開催された広商同窓会主催の慰労歓迎会に出席した。明治の時代から移民県とされた広島県にあって、広商の同窓会が太平洋を隔てたハワイにもあったのだ。石本の同級生約20名も駆けつけ、両者にとって思い出深い1日となった。

 

 余談となるが、この春潮樓は大正時代に創業し、現在も「夏の家」と名前を変えて営業を続けるハワイで一番古い日本料亭である。かの映画スター、ジョン・ウエインが立ち寄り、すきやきを頬張ったと逸話の残る名店である。またここは太平洋戦争の起点ともなった場所である。石本らが立ち寄った10年後のこと。日本海軍は"森村正"という男をハワイ大使館に勤務させる。彼の役目は高台に位置した春潮樓の二階広間から、ハワイ真珠湾に出入りするアメリカ軍の艦船の数を、日本外務省まで報告するというものだった。酒を注文し、酔っぱらったふりをしながらの偵察。当時の日米情勢から開戦やむなしの危機的事態に備えていたのである。

 

 もちろん石本ら広商一行は10年後に春潮樓がそのような歴史の舞台になることなど知るはずもない。ただ、御馳走に舌鼓を打ち、同級生たちと思い出話を堪能したのだ。
<思う存分御馳走を頂戴したが、二十名の同級生が昔の學生に立ち歸り胸襟を開いて、歡談、水入らずの会合は、本当に嬉しかった>(同前)

 

 カイザー田中と対戦

 9月1日、この日の対戦相手はワイアルア軍であった。試合会場までの道のりはオアフ島を1周するため、宿を午前8時に出発した。最初の休憩地は、あのカメハメハ大王に敗れたオアフ軍が身を投げたとされる古戦場ヌアヌ・パリであった。その後、大自然の絶景を眺めながら海岸線に出て、一路ライエ方面へひた走り、モルモン寺院(ライエハワイ教会)で参詣を済ませ、ハレイワに到着。山田商店という日本人の経営者の店で昼食をとり、午後3時30分、ワイアルアグラウンドに到着した。

 

 この日、現地は日本人ナンバーワンチームである広商の試合が行われるとあって、半日で仕事を切り上げる職場もあった。しかも、賃金は丸1日分払って従業員を納得させた上でというから、いかにこの試合が注目されていたかが容易に想像できる。スタンドには邦人2000人の観客が詰めかけ、観客席の左右に別れて応援するハワイでは珍しい光景が生まれたという。

 

 広商と対するワイアルア軍は、この夏のホノルル大会で優勝経験もある強者揃いのチーム。しかもキャッチャーは、かのカイザー田中(田中義雄)だった。

 

 カイザー田中は、翌年秋に日本に帰国し明治大学へ進学予定もあり、ハワイ球界では知らぬ者のいない抜けた存在だった。その後、昭和12年、大阪タイガース(阪神)に入団。タイガース二代目監督となった石本の下で優勝したときの正捕手でもある。

 

 石本の著書にはこうある。
<明秋明大入りを傳えられてゐるカイザー田中捕手など、ハワイ全島に鳴り響くスター選手を網羅しているので到底広商に勝味なく>(同前)

 

 強気で鳴らした石本も強敵相手に、最初から勝つのは難しいと読んでいた。先発には中1日でエース灰山を投入するのではなく、浜崎忠治にマウンドを任せ、灰山にはセカンドを守らせた。

 

 試合は開始直後に広商は相手のミスもあり3点を先制。だが、その裏に浜崎が連打を浴び、相手の四番、S・亀田がセンター前に弾き返した打球をセンターがトンネルしてランニングホームラン。これであっさりと逆転されてしまった。

 

 初回こそ打ち合いで荒れ模様だったが、その後、3回までゼロが並んだ。4回表、2死からヒットとフォアボールで広商が一、二塁のチャンスを迎えた。ここで六番・土手がライト線上にツーベースヒット。さらに、フォアボールで満塁として、八番・騎本がセンター前にはじき返し6対4と逆転に成功した。

 

 ペースをつかんだかに見えた広商の前に立ちはだかったのが、カイザー田中だった。その裏、カイザー田中はライト前ヒットで出塁すると、すかさず二盗。八番・竹田の打球はマウンド上空に高く上がり、これをファーストの太田が落球。カイザー田中はこの隙きを突いて一気にホームを陥れ、広商に1点差と迫った。

 

 ここで監督の石本が勝利に向けて舵を切った。温存していたエース灰山をマウンドへ送ったのだ。この継投がピシャリとハマり、選手たちにも「勝つ!」との意識が伝わった。5回表、七番・保田がライトオーバーのツーランホームランを放ち、8対5。6回裏、牽制悪送球で1点を失い8対6となったものの、7回制のこの試合、灰山がなんとか後続を断ち、ゲームセット。連勝し意気上がる広商は、4日後に行われた強敵フィリピン軍との試合にも5対2で快勝。エース灰山は14奪三振の力投を見せた。ハワイの試合を3連勝で終え、広商一行はアメリカ遠征の全日程を終了した。

 

 勝負師と商売人

 ハワイでの試合は3試合だったが、ワイアルア戦の後、日本人チームから試合を申し込まれている。しかし、石本は頑なに断った。選手も10人であり連戦となる中で、超エース級とはいえ灰山の連投を可能な限り避けるためもあった。もちろん次戦の相手、フィリピン軍の強さも知っていたからである。

 

 アメリカ本土でもハワイでも、石本は投手ローテーションを重視していた。急な対戦の申し込みを断ったのは、それも理由のひとつだ。灰山の登板間隔は途中のリリーフ登板を除けば中5日であった。カープの考古学第18回で書いたが、石本がアメリカ遠征で見せた投手登板間隔は中3.42日、ほとんど中3日以上空ける理想的なものだった。現在、球数制限や登板間隔が議題にあがる高校野球界に先駆けること80年以上も昔のことだ。

 

 加えて石本が対戦申込みに対して連戦を避けるようにしたのには、もうひとつ理由があると考えられる。勝負にこだわったことはもちろんだが、現地で「強い」と評判の広商との試合は、いわゆる銭になるドル箱カードだ。「ぜひ試合をやりたい」と試合を申し込まれると、現地での入場料や報酬の分け前、勝ち負けでのギャラ配分など、これらをきちんと考え、そして契約をしていたと思われる。

 

 これには筆者の憶測も含まれているが、ひとつその証拠がある。石本は出発前に毎日新聞社からアメリカ遠征の旅費を持たされたが、これを余らせて日本に持ち帰っていた。資料から引用しよう。
<旅行費用として、毎日新聞から、一万二千円もらっていたのに、試合の入場料でもうかり、帰国した時には、八千円も余っていて、毎日(新聞)の社長を驚かせた>(「情熱と信念の野球人~石本秀一物語~・中国新聞)

 

 約2カ月間のアメリカ遠征に出かける旅費をもらい、その約7割近くにあたる金額を余らして戻ってきたというのは、いかにも石本らしい。まだプロスポーツというものが確立されていない日本であっても、石本はちゃっかり契約やギャラの分け前など徹底していたと思われる。勝てば勝つほど試合の申し込みが増える中で、連戦は断りながらも、試合間隔を考慮しながら、勝ち続けるリズムにチームを乗せた。すでにプロの興行的な、駆け引きのすべを知っていたのであろう。

 

 こうした石本の策士ともいうべき興業的な手腕があったからこそ、のちに親会社のない貧乏弱小球団であるカープが、一人前のプロ球団へ成長していったことは言うまでもないだろう。今回で10回にわたり「カープ初代監督・石本秀一物語」として、石本の野球人としての生きざまをキャッチアップしてきた。次回からはカープ誕生へ向けた新たなシリーズを展開したい。乞うご期待。

 

【参考文献】  『廣商黄金時代』(石本秀一・大阪毎日新聞)、『情熱と信念の野球人~石本秀一物語~』(中国新聞)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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