列島を熱くしたラグビーW杯の熱気も冷めやらぬ、というかラグビーロスがようやく癒えた11月中旬、明治神宮大会にて母校・天理(奈良)の活躍に胸躍らせました。

 

 準決勝で中京大中京(愛知)に9対10とサヨナラ負けを喫したものの大健闘でした。奈良県大会準決勝でコールド負けも、近畿大会に3位枠で出場。そこで報徳学園(兵庫)、履正社(大阪)、大阪桐蔭といった強豪相手に勝ち抜き、戦いながら1戦ごとにチームが成長していったようです。特に1年生の活躍には目を見張るものがありましたね。来春のセンバツが楽しみです。では、今月も私の球論にお付き合いください。

 

 秋季Cは無茶ができる

「プロ野球選手、オフは何をしているんですか?」。これはこの時期によく聞かれる質問です。今と昔で少々様子が変わりましたが、10月から11月に秋季キャンプを張るのは変わりありません。「春季キャンプとの違いは?」。これもよくあるご質問ですのでお答えしましょう。春のキャンプと秋のキャンプ、違いは「練習内容」です。

 

 春季キャンプはチームプレーを仕上げていく場所です。投内連携、内野外野連携、バントシフトを含めたシートノック。さらにシーズンが始まったらできない重盗阻止や牽制のサインプレーの確認などもここでやっておきます。言わばチーム力の向上が春季キャンプの目的です。対して秋季キャンプ、こちらは個人のレベルアップが目的となります。

 

 秋はシーズンを過ごしてきたことで体はできているし、シーズンオフに向かうところなので言葉は乱暴ですが少々無茶をしてケガをしても翌シーズンに間に合います。メニューはバッティング練習を基本に、その間に守備練習。さらに個人の課題に重点的に取り組むかたちになります。また、秋季キャンプは様々なことを試せる場所でもあります。

 

 バッティングフォームの改造や守備位置のコンバート、さらにはスイッチヒッターへの転向なども秋季キャンプで行われます。松井稼頭央(現埼玉西武2軍監督)がスイッチ転向で重点的に練習したのも秋季キャンプでした。彼がスイッチ転向に取り組んだプロ1年目秋、ようやく守備もかたちになってきたところだったので個人的には「スイッチ転向でそっちに影響が出なきゃいいが」と思っていました。スイッチ転向に必要な練習量はそれこそハンパではありません。右も左もそれまでの倍、いやそれ以上練習しないとモノになりませんからね。でも、稼頭央はすごかった。日々、守備も打撃もうまくなっていきました。毎日、クタクタになるまで練習して、それが身についているのが外から見ていてもわかりましたよ。

 

 コーチ時代、私は秋季キャンプでは選手のことを「バラバラして鍛え直す」とイメージしていました。でも左右に振るようなノックではなく、正面の打球を基本通りに処理させて、それを1時間なら1時間ピシッと。だらだら長くやっても効果はないし、左右に振ってユニホームが泥だらけになるのもマスコミ映えするだけですからね。

 

 そういえば西武のコーチ時代にはこんなエピソードもありました。西武が宮崎県日南市南郷で秋季キャンプを行っていて、広島も同じ日南で秋季キャンプを実施していた。東尾修監督の提案で、選手を1人、入れ替えることになったんですよ。西武の選手が広島の日南キャンプへ、そして広島の選手が南郷に参加、と。

 

 白羽の矢が立ったのは監督と同じ和歌山出身の垣内哲也でした。東尾さんが「カキ、お前、明日からカープのキャンプな」と伝えると、垣内は「エッ!」と絶句した後、「イヤですよ、絶対イヤです」と(笑)。そりゃそうですよね。当時の広島は三村敏之監督が率いていて、チームの伝統として「練習がキツイ」ことは誰もが知ってましたから。東尾さんとしては選手たちを飽きさせないための刺激だったんでしょう。翌日の夕方、宿舎に帰ってきた垣内。ドロドロのユニホームで「もう、メチャクチャ走らされましたよ」と、ボヤいていたもんです。垣内の交換で広島からは河田雄祐が南郷に参加しましたが、彼はその後、トレードで西武入りすることになります。南郷での練習っぷりを誰かが見ていて評価したのかどうか。それはわかりませんが、面白い縁を感じますね。

 

 さて、自分の現役時代の秋季キャンプを振り返るとどうだったか? 当時は秋季キャンプが終わって12月になっても練習がありました。今は統一契約書に記載された契約期間(2月~11月)以外は球団主導の練習は実施できませんが、昔はお構いなし。西武時代は11月までは毎日紅白戦があって、12月に入り寒くなったら午前中は合気道、昼から水泳、午後は室内練習場でバッティング練習というメニューでずーっと練習していました。

 

 そういえば巨人時代、79年秋に長嶋茂雄さんが「地獄の伊東キャンプ」を実施したのは有名な話です。中畑清さんや篠塚和典さんら1軍若手選手が招集され、みっちりと鍛え上げられました。当時、私はプロ入り2年目。伊東キャンプのメンバーには選ばれず、多摩川で「地獄」の毎日を送っていました(笑)。まだ1軍半にも届かないくらいでしたから選出漏れは仕方ありませんが、多摩川で汗を流していても、どうにもモチベーションが上がりませんでした。長嶋さんら首脳陣は伊東に行っているわけで、アピールをと思ってもそのしようがない。練習に気分が乗らなかったことを覚えています。


 そんなことを思い出していたら面白いニュースが飛び込んできました。巨人は来季、2月1日、1軍、2軍、3軍がともに宮崎でキャンプインすることを発表しました。「いっちょアピールしたろ」と思っている若手選手にとって絶好の機会です。3年連続日本一の福岡ソフトバンクを見てわかるように、下からの戦力の突き上げは強いチームには絶対に必要なことです。一斉スタートのキャンプイン、首脳陣は戦力の全体像を把握できるし、若手のモチベーションも上がる。原辰徳監督、ナイス決断じゃないでしょうか。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~13年は東北楽天、14年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。この6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。


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