2020東京オリンピック・パラリンピックの聖火リレー、私、鈴木康友が奈良県のランナーとして走ることが決定しました。ツイッターで<病気をしたって移植したって頑張れる、さあトレーニングするぞー>と報告し、おめでとうのメッセージも数多くいただきました。ありがとうございました。この知らせが届いた12月17日は、白血病で入院していた競泳・池江璃花子さんが無事に退院したというニュースもありました。吉報続きの年末、来年はさらに良い年にしたいものです。

 

 たかが200m、されど200m

 私が聖火ランナーに応募した経緯は、17年夏に骨髄異形成症候群と診断され、それを臍帯血移植によって克服。同じ病気と戦う人たちに少しでも元気を与えられればと思ったことが第一です。さらに私の出身地、奈良県五條市を元気づけたいというのも理由のひとつでした。五條市は奈良県の中で最も高齢化が進んでいると聞きました。私が聖火ランナーとして走ることで五條市のお爺ちゃん、お婆ちゃんたちを喜ばせたい。そして五條市の野球少年たちの励みになれればいいな、と。

 

 そうした思いで聖火ランナーに応募したわけですが、スポンサー企業4枠と都道府県1枠の計5枠分の作文を提出するのが大変でした。それぞれテーマが異なり、普段、文章を書き慣れていない分、苦労しました。あんなに文章を書いたのは、寮の門限を破って反省文を書かされた巨人の若手時代以来かもしれません(笑)。

 

 この病気にかかっていなければ、聖火ランナーに応募することもなかったでしょう。私に移植された臍帯血は中部地方の赤ちゃんのへその緒から採られたものなんです。そのおかげで私の命がつながった。再び授かった命で聖火をつなぐ。五輪のお役に立てるのが嬉しいですね。闘病中はそりゃあしんどいことの方が多かったですよ。でも、いつも「もう1回ユニホームを着るんだ」という希望を持ち、前向きに考えるようにしていました。弱気になったときには、ベッドの枕元に置いてあった長嶋茂雄さんとのツーショット写真を見て励みにしていました。「ミスターもリハビリを頑張っているのに、オレがこんなことでヘバってどうするんだ!」と。

 

 聖火リレーで走る距離は200メートル。たった200メートルですが、されど200メートル。当然、失敗はできません。どの区間を走るのか決定していませんが、五條市は和歌山県との県境にあります。聖火リレーのルートは和歌山から奈良へ入ってくるので、奈良県の一番手を務められれば、これ以上の名誉はありません。4月12日の聖火リレー当日まで体調管理に気をつけ、無事に聖火を次のランナーにつなぎたいですね。

 

 さて、野球の話もしておきましょう。12月はプロ野球選手にとって契約更改の時期です。私は現役時代、一度も保留したことがありません。昔の契約更改は"銭闘"とも言われ、揉める選手は毎年のように揉めていましたが、幸いなことにその経験はありません。巨人時代、契約更改の行われる球団事務所まで10分くらいの距離に住んでいて、毎年「納得できなきゃ、何回でも往復してやるぞ」と意気込んでいましたが、"銭闘"するほどの事態にはなりませんでした。

 

 当時は今のような大盤振る舞いのような年俸アップはありませんでしたね。一度、6年目に170試合に出場し、ホームランも5本とそこそこ活躍したシーズンがあったんです。守備でも貢献したし、「これは上がるやろう」と思っていたけど、上がりませんでした。当時は進塁打とか細かい査定もなかったし、球界全体が「上げてほしければレギュラーになんなさい」というスタンスでしたからね。

 

 年俸といえば巨人時代、ロッカールームにレジー・スミスの給与明細が落ちていたことがあります。手にとって透かして見えた金額は、いちじゅうひゃくせんまん……。月割で800万とかでしたよ。さすがメジャー通算314本塁打、バリバリのメジャーリーガーだと驚いたもんです。

 

 このオフはFAなどで選手移籍が活発でした。トレードも含めて、移籍した選手は新天地で1年目にいかに活躍できるか、それが運命の分かれ道です。19年は巨人から東北楽天にトレードされた和田恋が、自身初ホームランを含め、使われていく中できちんと結果を残しました。そういう意味でも福田秀平、鈴木大地など彼らの新天地での"1年目"に注目です。

 

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~13年は東北楽天、14年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。この6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。


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