平野加奈子(バドミントン日本代表アナリスト/香川県高松市出身)第2回「親の想像を超えていく子」

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 1988年の年の瀬に平野加奈子は生まれた。冬季オリンピックがカナダ・カルガリーで、夏季オリンピックが韓国・ソウルで開催された年だった。加奈子という名は「成長しながら、ひとつひとついろいろなもの加えていってほしい」との願いを込め、付けられた。母・希代子によれば、「私たちの想像をどんどん超えていく子」だった――。

 

 

 

 

 

 

 平野自身は「結構活発な方だったと思います」と語る幼少期を、母・希代子はこう振り返る。

「明るくて誰とでも仲良くなれる。運動するのが大好きな子でしたね。赤ん坊の頃は歩き出したと思ったら、すぐに走るようになりました」

 

 3きょうだいの長女。「聞き分けの良い子」とは母・希代子の証言だ。平野の両親は教員で、日中は家を空けることが多かった。

「小さい時からいろいろなことがよく分かっている子でしたね。預かってくれる友達からも『加奈子ちゃんがいるなら親代わりになるから、弟と一緒でも大丈夫よ』と言ってもらえるほどでした」(母・希代子)

 しっかり者の長女は、どのように育ったのか。

 

 両親の教育方針は文武両道だった。「オールマイティーにできる子に育てたかった」との意向により、英語、ピアノ、習字、絵画とたくさんの習い事を経験した。どの習い事にも真面目に取り組んだ。そんな平野がバドミントンを始めたのは小学4年の時である。

 

 両親はバドミントン経験者で全国大会出場経験もある。しかし、きっかけは平野が香川バドミントンスクールのチラシを持ち帰ったことだった。香川スクールは全国大会常連の強豪クラブ。その支部が平野の通う川岡小学校の校区にできるタイミングだったのだ。

 

「疑いなく続けていた」

 

 最初は週に1回の練習程度。バドミントンの楽しさに触れ、すぐに夢中になった。運動神経が良かった平野は、その才を認められ、本部の練習に誘われた。一度の見学で「こっちでやりたい!」と心を奪われた。週1回の練習が週4、5回に変わり、周りのレベルも格段に上がった。

 

「めちゃめちゃきつかった」という練習。「チームの中ではあまり勝てなかった」。同じチームに所属する同学年の子は全国大会でも上位に進むほどだった。それでも気持ちは折れなかった。当時の身長は130cmを少し超えたぐらい。クラスの背の順でも前から数える方が早かった。小さい身体でコート狭しと駆け回る。パワーでは劣る分、運動能力でカバーし、戦った。

 

 平野の記憶によれば、成績は「全国大会は出場しても1回戦で負けるぐらい。出ただけでした」という。華々しい結果を残せなかったが、香東中学に進学してもバドミントンは続けた。実は中学1年時に陸上で四国大会の1500m走で1位になるほどの実力を持っていた。小学6年時には県大会の1000mで県学童新記録を更新したこともある。

 

 当然陸上を勧める声もあったものの、平野が選んだのはシャトルを追いかける日々だった。

「あまり疑いなく続けていましたね。バドミントンが楽しかったし、好きだったから」

 香東中はバドミントンの強豪校ではなかった。平野は厳しい練習環境を求め、小学4年から通う香川スクールでトレーニングを積んだ。

 

 中学3年間、都道府県対抗の団体戦で全国大会に出場することはあったものの、個人では四国上位に入るのがやっとだった。中学卒業後は一般受験で、進学校の高松高校に進んだ。それは「将来のため」であり、バドミントンのためではなかった。

 

(第3回につづく)

>>第1回はこちら

 

平野加奈子(ひらの・かなこ)プロフィール>

1988年12月21日、香川県高松市生まれ。小学4年でバドミントンを始める。香川スクール、高松高校、筑波大学まで現役を続けた。全国大会、国体などの出場経験はあるものの、目立った成績は残せなかった。11年にバドミントン日本代表の分析スタッフ入りし、現在に至る。日本代表選手の国際大会の多くに同行。オリンピック、世界選手権などのメダル獲得に貢献した。中学時代は陸上(1500m走)で四国1位になったこともある。

 

(文・プロフィール写真/杉浦泰介、本文中写真/本人提供)

 

 

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