「今になれば自分でいろいろ考えるきっかけになったと思います。高校生になってから“どうやったら勝てるんだろう”と考えるようになりました。中学生まではコーチの方に教えられるがままにやれば強くなれていましたから」

 バドミントン日本代表のアナリストを務める平野加奈子のルーツに迫る時、彼女の高校時代を避けては通れないだろう。地元香川県内の進学校・高松高校への受験は、これまでやってきたバドミントンのためではなく、「将来のため」という選択をした。

 

 

 

 

 

 

 高松高はバドミントン強豪校ではなかった。県内で全国高校総合体育大会(インターハイ)を目指すなら香川中央、高松商業、英明などが通常ルートとなる。文武両道を志す平野は、高松高でバドミントン部に入部した。部員は男女合わせて約40人。練習時間も平日は2時間、休日は3時間程度だった。他の強豪校に比べればトレーニングの量も質も違う。部の中では男子と練習するくらい実力が抜けていたという。

「相手の対策を練るようになったと、はっきりと覚えているのは、高校生になってからですね。自分のチームが団体戦で負けても、ライバルとなる選手たちの団体戦の試合をチェックし、何か特徴となるクセはないかを探していました」

 ただ闇雲にシャトルを追いかけ、打ち続けるのではなく考える力が付いたという。

 

 当時高松高のバドミントン部副顧問だった白川直美氏が振り返る。

「彼女としては物足りなかったと思うのですが、不平不満も言わず頑張っていました。誰からも愛される存在で先輩たちからもすごく可愛がられていましたね」

 

 男子の練習にまじる以外にも、香川中央、高松商から練習に誘われれば、足を運んだ。しかし高校2年間で、全国大会に出場できなかった。2年冬に全国レベルの選手が集まる合同合宿に参加した。

「元々は将来の勉強のために進学したのですが、“インターハイに出たい”という思いは日増しに強くなりました。中学時代は競っていた相手に勝てなくなったんです。やはり“負けたくない”との気持ちがすごく大きかった」

 

 高いレベルでの練習環境を求め、彼女は思い切った決断をする。それは他校の指導者に教えを乞うことだった。時には直談判することもあった。それまでのように誘われたタイミングだけ参加するのではなく、自ら進んで香川中央、高松商へ出稽古に向かったのだ。相手先はもちろんのこと、高松高の関係者の理解があってこそである。

「反対する声は全くなかったですね。部員の子たちも快く送り出してくれました。それに普通は他校の生徒なのでライバルにもなり得るのに、彼女を受け入れてもらえました。平野さんは解け込むのがうまかった。一生懸命で素直な子なのでいろいろな先生に可愛がられましたね」(白川氏)

 現在に通じるコミュニケーション能力の高さも、この頃から際立っていたのだろう。

 

 学んだのは他校の指導者にだけではない。高松高のフェンシング部顧問からは足の踏み込み方、出し方を教えられた。吸収できるものはすべて吸収した。考えてバドミントンをするようになり、いろいろな指導に触れたことで成長できた。その成果が高3の夏にインターハイ出場権を勝ち取ったことだ。香川県総合体育大会決勝の女子シングルスで優勝を果たした。全国の舞台は初戦で敗れたものの、その後は国民体育大会にも出場するなどした。

 

「もがいた4年間」

 

 高校卒業後は筑波大学に進学した。全日本学生バドミントン選手権大会(インカレ)優勝経験もある全国屈指の強豪である。更なる成長のため、生まれ育った四国を離れ、関東に拠点を移したのだ。

「体育の先生になりたいと思っていました。それにバドミントンが自分の中で不完全燃焼だった。“もう少し続けたい”という気持ちもありました」

 

 先述したように筑波大は名門校である。インターハイ、国体の出場経験こそあったものの、全国大会での輝かしい実績などない平野は一般入試での入学となった。バドミントン部にはエリートが集まり、団体戦でレギュラーになることも容易ではなかった。

「もがいた4年間でした。1年生の時には愕然としました。レベルも全然違うし、練習にもついていけなかった。“もうやりたくない”と思うほどでした」

 

 平野がバトミントンで“辞めたい”という感情を抱いたのは初めてだった。そんな彼女を諭したのが母・希代子である。

「自分が“やる”と決めたことを途中で投げ出すのは違うんじゃないかと。たとえレギュラーになれなくても、学べることはあると思うんです」

 再び気持ちを入れ直した平野は、もがきながらもバドミントンで完全燃焼した。大学4年間で華々しい結果は残せなかったが、懸命に競技と向き合った。その姿勢は後輩にも影響を与えた。

 

 筑波大で1年後輩だった奥井智菜美氏は、平野の印象をこう語る。

「昔から面倒見の良い先輩でした。私とはウエイトトレーニングでのペアや練習パートナーになることも多かった。平野さんはサバサバしていますが、怒る時は怒ってくれますし、ハッと気付かされることもありました。選手としてはパワーがありながら駆け引きも上手く、頭脳プレーをする印象です。だから平野さんから卒業後に『アナリストになる』と聞いた時もしっくりきました」

 

 団体戦の主力にはなれなかったものの、個人ではインカレを経験した。平野は大学卒業後、実業団で現役を続けるつもりはなかった。地元に戻り、教職に就くことが規定路線だった。だが、あることをきっかけに、ここから平野の人生は一変する――。

 

(最終回につづく)

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平野加奈子(ひらの・かなこ)プロフィール>

1988年12月21日、香川県高松市生まれ。小学4年でバドミントンを始める。香川スクール、高松高校、筑波大学まで現役を続けた。全国大会、国体などの出場経験はあるものの、目立った成績は残せなかった。11年にバドミントン日本代表の分析スタッフ入りし、現在に至る。日本代表選手の国際大会の多くに同行。オリンピック、世界選手権などのメダル獲得に貢献した。中学時代は陸上(1500m走)で四国1位になったこともある。

 

(文・プロフィール写真/杉浦泰介、本文中写真/本人提供)

 

 


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