「高木伴」という名が野球界に知れ渡ったのは、2008年。巨人の元エースである斎藤雅樹の出身校、川口市立高のエースとしてプロのスカウトからも注目された。そして、ドラフト指名候補として、再び高木の名が浮上したのが、13年。社会人1年目から主戦で活躍し、さらにプロが名を連ねた“侍ジャパン”に、投手ではただひとりアマチュアから選出されたのだ。だが、2年目の14年は一転、苦戦し続けた。果たして、高木に何が起きたのか――。
―― ドラフト会議で自分の名前を呼ばれた瞬間の気持ちは?
高木: ドキドキだったので、本当にほっとしました。周りからは「大丈夫だよ」と言ってもらえていたのですが、やっぱり不安もあったので……。

―― 当日は緊張していた?
高木: いえ、その日は練習がありましたし、普通に過ごしました。でも、やっぱり意識していたんでしょうね。周りからは「顔がひきつっているぞ」と(笑)。一番緊張したのは、前日です。僕、試合の時も登板前日が一番緊張するタイプなんです。だからドラフト前日は、ずっと緊張していましたね。なんだかそわそわしちゃって、ウエイトトレーニングとか、体を動かして紛らわしていました。

―― 球団からはどんなことを期待されていると?
高木: おそらく中継ぎとして使われるのかなと思っているのですが、オリックスには先発、中継ぎ、抑えとピッチャーが揃っているので、どこのポジションも厳しい争いになると思います。その中で、自分の持ち味である「速い真っ直ぐを主体にして、フォークで勝負」というピッチングをしていきたいなと思っています。とにかく与えられた役割をやるだけ。どこのポジションというよりも、1死、1イニングを大事にしていきたいと思っています。

 甲子園が“夢”から“目標”へ

―― 高校1年の秋まではショート。ピッチャー転向のきっかけは?
高木: 小学3年で地元のソフトボールチームに入った時は、肩が強いという理由でキャッチャーになったのですが、5、6年の時にはショートをやるようになっていましたね。その頃からピッチャーもやっていたのですが、本格的にピッチャーに転向したのは高校1年の冬でした。僕、実はショートの守備はそんなにうまくなかったんです。ただ、肩が強かったので、ワンハンブルしても余裕で刺せていただけで、捕球は下手でしたね。だから1年の時から試合にも出させてもらってはいたんですけど、1年の夏の大会後に全然守れなくなってしまった時期があったんです。それで監督に「ピッチャーは、どうだ?」と言われたのがきっかけでした。

―― 実際にピッチャーをやってみて、どうだった?
高木: 最初は楽しかったですよ。もともと投げることは好きだったので。ただ、走るのは嫌でしたね。一番好きだったのはバッティングだったので、ピッチャーになってからもバッティング練習をしていたんです。そしたら監督に「そんなことよりも、走ってこい!」と怒られました(笑)。

―― 本気でピッチャーをやろうと思ったのは?
高木: ある日、監督に「オマエが投げれば、絶対に甲子園に行かせてやる」と言われたんです。それで「わかりました」と。それからは、本気で練習に取り組みました。

―― どんな監督だった?
高木: 長井秀夫監督は、市立川口高のOBで、NTT東日本で監督も務められていた方です。怒鳴ったりするようなことはないんですけど、でもやることが厳しい。まだ僕が野手だった頃、つきっきりでバッティングを見てくれたのですが、最初は「この人は、鬼だ」と思っていました(笑)。優しい口調で、平気でとんでもないランニングメニューを言ったりするので、逆に怖かったですよ。でも、本当によく面倒を見てくれました。僕が今あるのは、すべて長井さんとの出会いから始まっているんです。一生、頭が上がらないですね。

―― その長井監督から「甲子園に行かせてやる」と。
高木: はい。今思えばその言葉で、僕の野球人生が始まったと言ってもいいですね。それまでは遠い夢でしかなかった甲子園が、目標になったわけですから、「そのためだったら、何でもやろう」と。だから死ぬほど走りましたよ。

―― 最後の夏は、準々決勝で敗退。
高木: 春の大会で、右の手のひらが腱鞘炎になって投げられなくなったんです。リリースする度に激痛が走って、ボールが全部抜ける状態でした。その時は正直「もう、終わった」と思いました。それでも治療をして、なんとか夏に間に合ったのですが、今度は背筋に痛みが出てきたんです。でも、それを監督にも言いませんでした。組み合わせも良かったので、「自分が投げれば、甲子園に行ける」と思ったんです。2枚看板のようなかたちだったので、本当はもうひとりのピッチャーに任せれば良かったんでしょうけど、やっぱり甲子園への思いが強くて、自分が出ちゃいましたね。

―― エースとしての責任感もあったのでは?
高木: ただ、その結果、最後は8安打6失点で3回途中に降板。チームも5回コールド負けをしてしまいました。

 “がむしゃらさ”が好投につながった1年目

―― 高校時代もプロのスカウトから注目されていたが、プロ志望届は出さなかった。
高木: 当時はプロのことは、まったく考えていませんでした。とにかく、「甲子園に行く」という気持ちだけでしたから。しかも、ケガもしていましたし、「こんな状態で上に行っても、無理だろうな」と思っていたんです。だから実は、野球はもう辞めようと思っていました。最後の試合で負けた時は悔しさはありましたが、切り替えが早いタイプなので「終わったな。よし、じゃあ次は何をしようか」という感じでしたね。

―― 大学で野球を続けた理由は?
高木: 長井監督です。「次はどこで野球するんだ?」と言われて、とても「野球を辞めます」とは言えませんでした。それで東京農業大の野球部に入ったんです。でも正直、大学4年間はダメでしたね。もちろん、最初は「よし、もう一度頑張ろう」と思っていたんです。でも、厳しい規律に納得がいかないこともあったし、ケガも引きずっていたので、なかなか試合に出られなくて、だんだんとやる気が削がれていきました。「このままじゃダメだ」と何度も思ったのですが、結局本気になり切ることができないまま、4年間が終わってしまいました。

―― 大学卒業後は、NTT東日本に入社しました。
高木: 今度は仕事としてお金をもらって野球をやるのだから、きちんとやらないといけないと思いましたね。ただ、入る前は不安しかなかったですよ。大学4年の時に内定が決まった後、都市対抗を観に行ったんです。そしたら、ピッチャーもバッターもレベルが高くて、「こんなところでやっていけるんだろうか……」と。しかも同期にいいピッチャーが入ってくるということも聞いていましたからね。

―― そんな中で入った社会人1年目はチームの主戦に。日本代表にまで選ばれた。
高木: 最初は僕はまったく登板機会がありませんでした。同期の2人は練習試合でも投げていましたが、僕はずっとデータ班にまわせられていたんです。それでも練習はきっちりとやっていました。野球ができないというのは、仕事ができないのと一緒ですから。ピッチングコーチもつきっきりで指導してくれたおかげで、だんだんとピッチングが良くなっていったんです。そしたら、ピッチングが楽しいと思えるようになって、「試合で投げたい」という気持ちが出てきました。そんな時に、ほかの2人が調子を落とし始めたんです。それで、投げるピッチャーが僕しかいなくて、投げたらたまたまいいピッチングをした。それで、投げさせてもらえるようになったんです。運が良かったんだと思いますね。あとはもう、がむしゃらに投げていただけです。1球1球、全力で勝負、という感じでした。1年目は、それが良かったのかなと。

 プロのすごさを目の当たりにした台湾遠征

―― 一転、2年目は結果が出ずに苦しんだ。
高木: 単なる言い訳になりますが、やっぱりプレッシャーもあったと思いますね。それまで無名で全国大会も経験したことのないピッチャーだったのに、プロのスカウトまで来るようになって、「結果を残さなくちゃいけない」という気持ちが出てきたんです。1年目は確かに自分自身は活躍しましたが、それでもチームを優勝させることができなかったこともあって、2年目は「今年は勝てるピッチャーになろう」という目標を掲げました。でも、「勝たなければいけない」という気持ちばかりが強くなってしまって、結果が出ないものだから、焦ってしまって……。最大の要因は、メンタル面にあったかなと。

―― 気持ちを切り替えられたのは?
高木: 5月くらいですね。実は、2年目も春先は特に悪くはなかったんです。オープン戦の結果も良かったですし。ただ、公式戦になると、なぜかダメだった。やっぱり勝ちへの意識が強すぎて、力んでいたんだと思います。ようやく気持ちを切り替えられたのは、都市対抗の第一決定戦で投げさせてもらった時ですね。2番手として3回1/3を無失点に抑えることができて、その時に「自分が今やれることをやろう」と思ったんです。それで、気持ちが少し楽になりました。それからピッチングも、少しずつ良くなっていきました。でも、都市対抗の本戦、準決勝で先発を勝ち取ったにもかかわらず、3回途中3失点で降板してしまいました。あれは、本当に悔しかったです。

―― 社会人1年目には、プロに交じって日本代表として台湾と対戦した。
高木: 相手がどうのというよりも、プロの選手たちのレベルの高さに驚きましたね。例えば、野村祐輔投手(広島)は、切り替えの早さを感じました。アップの時から、既にピッチングにつなげる準備をしているんです。ブルペンに入っても、サッと切り替わっていましたしね。あと、小川泰弘投手(東京ヤクルト)はキャッチボールの時から球が違うんです。軌道がまったくブレない。シュンッてリリースされて、そのままスーッとこっちのグラブに収まるんです。球の速さでいったら、三嶋一輝(横浜DeNA)の真っ直ぐはスピンが効いていて、速かったですね。でも、一番えげつない球を投げていたのは、松田遼馬(阪神)。そんな彼でも、一軍の主戦で投げてはいないわけで、「プロってどんなところだよ」と思いました(笑)。

―― そのプロの世界に入って勝負するわけですが、プロでの目標は?
高木: まずは一軍に入って、一軍のピッチャーからいろいろと吸収しながら、少ないチャンスを勝ち取っていきたいと思っています。社会人から入るわけですから、やっぱり即戦力として見られていると思いますので、1年目から印象付けたいなと思っています。

高木伴(たかぎ・ばん)
1990年6月1日、埼玉県生まれ。小学3年でソフトボールを始め、中学では強肩の遊撃手として活躍。高校1年冬に投手に転向。3年時にはエースとしてチームを牽引した。東京農業大を経て、2013年、NTT東日本に入社。1年目から主戦として投げ、11月には日本代表に選出され、プロと共に台湾遠征に参加した。181センチ、80キロ。右投右打。

(聞き手・斎藤寿子)

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