広島カープの初代監督に就任する石本秀一の生きざまを前回まで10回にわたり綴ってきたが、石本の人生経験が草創期のカープやのちのチーム運営に有形無形の礎となって生きていることは間違いない。とりわけ前回で紹介したが、広島商業監督時代にアメリカ遠征に行き、各地で試合を重ねながら、勝ち星をあげただけでなく、あたかもプロ野球の興業のように、入場料からギャラの配分など交渉事をぬかりなく行い、結果、旅費としていただいた金額の約7割を余らせて持ち帰った逸話こそは石本の真骨頂だ。監督でありながらチームの財務にまで優れた感覚を持ち合わせていたことは、カープ誕生後、さまざまな困難を乗りこえていくのに大いに役立つのである。

 

 手土産代わりの公約

 石本は財務に明るいことに加え、野球人としての人脈も広かった。戦前の職業野球の時代から、大阪タイガース、名古屋金鯱、大洋(のちの翼軍)、西鉄、戦後は大陽と多くの球団で監督を務めた。その人脈を生かしながら、かつてのチームメイトや、プロ野球選手の足跡をたどり、選手をかき集め、チームを結成していくのだ。話は昭和24年、カープ結成前夜のことである。

 

 チーム結成に向け、創立準備委員会が動き出した中、創立準備委員長を務めたのは元代議士の谷川昇で、この委員長に就任する以前から谷川に、石本が自ら監督を買って出たという一幕もある。東広島市西条にある自宅を訪れ、石本は自ら監督をと名乗り出たと言われ、その際、手ぶらというわけにはいかないと、手土産代わりの公約を掲げたのは、さまざまな文献に記されている。

 

 昭和24年当時、石本は大陽ロビンスの監督という立場にあった。周囲からの情報や噂で地元広島に球団ができるという話を耳にしており、監督としてシーズンの真っ最中ながら、同時に選手集めの準備をしていた。石本が掲げた公約は以下のようなものだった。

 

<ロビンスの二軍、小林(恒)、江田など十人ばかりは私が手塩にかけた選手で、現在の一軍より素質がいい。これを百二、三十万で田村オーナーから譲り受ける>(「中国新聞」連載広島カープ十年史・昭和34年12月6日)

 

 監督として新チームに選手を連れて行く、というわけである。この魅力的な話が、プロ野球にはズブの素人集団の財界人らで作るカープ創立準備委員会の面々の琴線に触れた。一気にチームができるという思いが膨れ上がったのだ。

 

 いきなりの大漁船に乗せられたような話だったが、結論から言えば、これはうまくいかなかった。ロビンスのオーナー田村駒治郎は、監督の石本と懇意ではあったが、自チームの選手を手放すことはできないと首を横に振った。石本の描いた「田村オーナーから譲り受ける」という構想は全くあてが外れてしまったのだ。

 

 ちなみに補足しておけば、小林恒夫は、カープが設立された翌年(昭和26年)に、ロビンスの主力投手となり18勝15敗と好成績をマークした。江田孝も昭和25年にキャリアハイとなる23勝8敗、防御率2.83と大活躍を見せた。カープ入団はならなかったものの、2人は石本が育てた選手には違いなかった。

 

 さて、石本の目論見が外れたのには理由がある。いくら石本が球界に顔がきくとはいっても、時期が悪かった。当時はプロ野球が2リーグに分立するということで、選手の引き抜きや二重契約、さらには大金を積んでの囲い込み交渉など"無法状態"であった。それだけではない。

<怪文書や偽電話、盗聴などが行われ、まるでスパイ戦のような暗闘があちこちで繰り返された>(『球団消滅』中野晴行・ちくま文庫)

 

 水面下で様々な策略、そして札束が飛び交ったであろうこの状況で、マネーゲームに参戦できる球団ならまだしも、カープはこの時点では、地元財界からの出資を待つばかりの状況で資金といえるものはわずかしか集まっていなかった。加えて、自治体からの出資金にしても、未だ議会での予算通過すらされていない。選手を連れてこようにも財布は空っぽ、"実弾"といえるものがなかったのだ。

 

 石本は昔の監督時代のツテを頼りに、選手にかけあい、なんとか口説き落とすというやり方を余儀なくされた。こうした難行苦行の中で、連盟に登録する50人の名簿を作成するためにもがき苦しんだのである。

 

 喫茶店マスターが球界復帰!?

 石本は思い当たる選手にかたっぱしから電話をかけては、頼み込んだ。電話では埒があかないとなれば、自らが選手のところへ出かけていった。ある日、石本は瀬戸内海を渡り、四国・松山に赴いた。わらをもつかむ思いで船に乗ったのだろう、石本が狙ったのは、プロ野球経験者であり、まだやれるはずだと思った引退選手である。文献にはこうある。

 

<引退していた選手を無理矢理引っ張ってきた>(『カープ30年』冨沢佐一(中国新聞社)

 

 その選手の名前は中山正嘉(なかやま・ただよし)という。松山商業(松商)出身、戦前の職業野球では、名古屋金鯱軍のエースとして大車輪で活躍した。戦前の5年間で212試合に投げ、70勝87敗。投手不足の時代、連戦連投でチームを支えた右腕である。昭和14年、3年目のシーズンには、60試合に登板し、完投が30試合ととてつもない数字を残している。

 

 ところが、この年の登板過多がたたってか、翌年は61試合に登板し、18勝をあげながらNPBワーストでもあるシーズン29敗を喫した。この年を境に勝てなくなった中山は昭和16年に引退。選手としては短命だったが、戦前の職業野球を盛り上げた1人である。

 

 引退後、中山は愛媛県に戻っており、石本が新球団創立に駆け回っていた昭和24年には喫茶店を営み、生計を立てていた。この中山の営む喫茶店に石本がやってきたのだ。

 

 石本が中山を口説き落とす様子が、カープの草創期を題材にしたテレビドラマ「シリーズ被爆70年 ヒロシマ 復興を支えた市民たち 第1回『鯉昇れ、焦土の空へ』」(NHK)で、こう描かれている。

 

 石本は中山の経営する喫茶店でコーヒーを飲みながら、中山にこう言い放つ。

 

石本:旨いのー、こがぁにうまいコーヒーを入れるんじゃ、まだまだいけるじゃろー。
中山:石本さん、何度も言うた通り、8年前に肩を壊して、もう、指先の感覚もなくて……。
石本:中山君。男は30歳で勝負じゃ。コーヒー代は広島で、何十倍にしてでも払うちゃるけぇ。

 

 こう言って席を立った石本は深々と一礼し、店を後にした。肩を壊し引退した元投手に声をかけなければならないほどに窮していた。そんな石本の状況がリアルに感じられるシーンである。

 

 さて、筆者はこの喫茶店が今も残ってはいないかと興味をそそられた。だが、70年も前のことだ。仮に現存しなくとも、ご子息など関係者にお目にかかれればと思い、松山市立中央図書館にリファレンスをお願いし、喫茶店の場所を聞いた。答えは、不明であった。

 

 市立図書館より資料を送っていただくとともに、縁者やご子息の取材にさせていただきたいと、松山商業野球部にもOB名簿をあたってもらった。調査結果は「野球史と名簿なら残っています」との返答で、一緒に『愛媛県立松山商業高校 野球史』など、多くの資料を送っていただいた。

 

 資料をあたると、まず「松商野球部OB名簿」(昭和47年)には、<中山正嘉 中山物産社長(池田市井口堂町)>とあった。カープ引退後は実業家として歩んだことがわかる。さらに野球史には、彼の力投ぶりの記述があった。

 

 昭和9年、第20回全国中等学校優勝野球大会愛媛県予選決勝、対松山中(現松山東高)戦だ。

<松商は中山の物すごいストレートと内外角を通す大きなドロップ。(中略)投手戦は両軍の攻守と相まって0-0の均衡は破れず、まさに優勝試合にふさわしいものであった>

 

(写真:松商時代の山中正嘉投手<『愛媛県立松山商業高等学校 野球史』愛媛県立松山商業高等学校野球史編集委員会(愛媛県立松山商業高等学校)より転載許可の上掲載>)

 この試合、松山中学を2安打完封で抑え、2対0で松山商業が優勝した。この時のメンバーには、後にプロで活躍する伊賀上潤伍(大阪)や筒井修(巨人)などの名前があった。

 

 この後の四国大会は決勝で敗れ、甲子園出場はならなかったが、翌昭和10年は、後の巨人の名手・千葉茂らもレギュラーに加わり、甲子園球場での選抜大会ベスト8に入った。さらに夏には全国制覇を遂げた。松商第一期黄金期である。これをエースとして牽引したのが中山である。「ぜひ、カープに」と石本が懇願したのも納得できる球歴の持ち主である。

 

 筆者がこの松山市にあった喫茶店の調査活動を開始したのが、2019年9月。そこから3カ月余りの間、様々なやりとりの中で松商野球部にまつわるこんな逸話を耳にした。

 

 松商野球部の選手一人ひとりを、松山のタクシーの運転手が支援していたというものだ。

 

「しっかり頑張れ」「体力をつけにゃいかん」そう言って、飯を食わし、「さあ、県大会だ」「さあ、甲子園だ」という具合に熱烈な応援をしていたという。

 

 この選手にはこのタクシー運転手、あの選手にはあのタクシー運転手という具合に選手一人ずつに、特定の運転手がサポーターとしてついていた。しっかり飯を食べさせ、物心共に松商野球部を支えたというのだ。タクシーが普及していたということから戦後になっての話だろうが、地域一体で選手らを食べさせ、一人前に育てていき、甲子園で活躍するのを心底喜んでいたという。

 

 この話を聞いたとき、ふとこんなことを思った。カープ存続の危機には、後援会を設立し、県民市民一人ひとりの後援会費によって、カープの選手の給料をかき集め、時には飯を食べさせ、プロの選手として歩みを進めた。郷土の人が野球を支える精神は、広島も松山も同じであったのだろう、と。

 

 話を元に戻せば、結局、中山はカープに入団した。石本の情熱にほだされ、カープの投手として歩みだすのだ。

 

 さらに、中山はカープの投手となっただけではない。石本の情熱的な行動に魅せられ、石本の協力者となって、中山自身が懇意にしている選手を新球団に誘ったのだ。中山がその男に迫った言葉はこうだ。

 

<おれは32になるが、今度広島にできる球団に入団する。男は30歳で勝負だ>(『カープ50年―夢を追って―』中国新聞社)

 

 石本の言葉がさまざまな言霊となって伝わり、選手が選手を呼ぶという効果が生まれたのだ。この中山が口説き落とした人物については、次回で触れることとしよう。カープ初年度、チーム内で最多本塁打を記録したあの男である。

(つづく)

 

【参考文献・資料】  「中国新聞」(連載広島カープ十年史・昭和34年12月6日)、『球団消滅』(中野晴行・ちくま文庫)、『カープ50年―夢を追って―』(中国新聞社)、『カープ30年』(冨沢佐一・中国新聞社)

【参考映像】 「シリーズ被爆70年 ヒロシマ 復興を支えた市民たち 第1回『鯉昇れ、焦土の空へ』」(NHK)

【協力】  愛媛県立松山商業高等学校野球部、松山市立中央図書館

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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