球団創設初年度の開幕に向け、昭和24年オフ、カープ初代監督・石本秀一の熱心な選手集めが続いていた。


 自治体からのわずかながらの出資金を獲得資金とし、さらに自身の人脈もフルに活用した。戦前の職業野球時代の剛腕投手・中山正嘉はすでにプロ野球を引退し、喫茶店のマスターをしていたにもかかわらず、愛媛県松山市まで出向いて、石本の情熱で口説き落とした。このことは前回書いた通りであり、ありとあらゆるものを使った強気な勧誘は中山だけでなく、中山の友人である樋笠一夫にも及んだ。今回はこの樋笠が主人公である。

 

 高校教師から転身

 樋笠は昭和24年当時、香川県にある尽誠学園高校で教師をしていた。中学時代(高松中学・現高松高)は野球部に所属し、昭和9年、全国中等野球選手権大会に出場しベスト8の実績を持つ。中山とは懇意であり、その中山が石本の情熱にほだされ、喫茶店を営む安定生活を捨てカープに入団するという覚悟の決断をした。それに心を完全に動かされたのだ。

 

 石本のカープ創設の情熱に動かされた中山の30歳を過ぎての男気ある行動が、樋笠の心に染みた。樋笠はチョークをバットに持ち替え、第二の人生へと歩み出した。

 

 樋笠のバッティングについて、『カープ50年-夢を追って』(中国新聞)にはこうある。
<強引に引っ張る粗削りな打撃>

 

 しかし、これを高く評価し、一流のプロの選手の育てるのだから石本の眼力と手腕も大したものである。金がないならば足で稼ぎ、情熱でもって口説き落とし、原石とあらば磨き上げる。石本苦難の選手集めの中で、樋笠の荒っぽいスイングに感じた素質は本物であった。石本が樋笠に寄せた期待の証言がある。「広島カープ十年史」(中国新聞社)から引用する。

 

<四国に一塁手でよう打つ、とっておきの選手がいる。いまにあっといわせてみる…>

 あっといわせる--。石本のこの言葉には間違いはなかった。カープ創設1年目(昭和25年)、最初の本拠地である広島総合球場(現・コカ・コーラボトラーズジャパン広島総合グランド野球場)での地元ホームラン1号は、樋笠が放った。わずか数カ月前まで教鞭をとっていたにもかかわらずだ。開幕から3勝12敗と苦しんでいた4月8日の対松竹戦、3回裏に飛び出たツーランである。

<この2点ホーマーが広島総合球場でのカープの第一号であるとともに樋笠の第一号ホーマーでもあった>「広島カープ十年史」(中国新聞)

 

 この試合、勝利とはならなかったが、戦力が整わず、前日まで7連敗と波に乗れないカープの中で、2対3と善戦した試合ではあった。

 

 樋笠のここ一番での勝負強さは、初年度の最終戦で顕著になった。実は、この日まで、チームメイトの白石敏男(のちの勝巳)にホームラン数では1本負けていた。白石20本、樋笠は19本であった。30歳で飛び込んだプロ野球の世界で、「なんか結果を残してやろう」と樋笠は心に期すものがあったのであろう。最終戦の11月18日、2本のホームランを放ち、白石を抜き、チームホームラン王に輝いたのである。

 

 わずか1年で退団

 初代のチームホームラン王が元学校教師というのも、当時のカープの編成の苦労を感じさせる。樋笠は打率こそ2割1分9厘と低かったが、21本塁打で72打点。望外の活躍である。「来年はどんな活躍をしてくれるだろう」とファンの期待が高まったのも当然である。ところが樋笠はこの1シーズン限りでカープを退団したのである。その理由はこうだ。

 

<友人と約束したしょうゆづくりをやるため、四国に帰っていた>(『カープ50年-夢を追って-』中国新聞)

 

 無理もなかろう、結成初年度のカープは給料の遅配や欠配続きで、およそプロ野球の球団と呼べるような環境ではなかった。だからといって「はい、そうですか」と、簡単に引き下がる石本ではなかった。石本は樋笠を呼び出し続け、これに樋笠は応じない形で日数だけが過ぎていった。

 

 そして翌昭和26年5月26日、樋笠は巨人に入団したのである。樋笠の言い分が、『カープ30年』にはこうある。
<給料の保証さえないから、地道な生活をと思い商売を始めたんだ。それが失敗したから巨人へ入った>

 

 チーム二冠王が巨人へ……。これが引き抜きであることは衆目の一致するところであった。樋笠本人は頑なに否定していたものの、石本は晩年まで「巨人の引き抜きである」と、主張し続けたという。石本本人を取材した記者とのやりとりを聞いたことがある。

 

「(樋笠選手)本人は引き抜きじゃあないと言っていますが?」

「そがあなことはない、引き抜きじゃ」

 

 石本は引き抜き説を、晩年まで主張し続けていた。しかし、筆者が元カープ球団職員に取材した記録の中では、「引き抜きもしかたあるまい」という見解を示していたのも石本であった。当時、球団職員であった渡部英之(故人)の講演会での証言である。

 

「樋笠の件は、仕方ない部分もあったんだ。実は未払いの部分も多かったからのう……」
 石本がこう渡部にもらしたこともあったという。樋笠は持ち前の強気な性格から、選手らの先頭に立ち、給与支払いの申し立てもいとわなかった人物。結果、カープ球団のない袖に愛想を尽かしたとしてもなんら不思議はなかった。

 

 いずれにせよ、カープの初代チームホームラン王は、巨人に移籍し、勝負強い代打として名を馳せることになる。のちの話となるが、昭和31年3月25日の巨人対中日戦。中日のエース・杉下茂から、代打逆転サヨナラ満塁ホームランという日本プロ野球における初の快挙を成し遂げている。

 

 巨人との因縁

 この樋笠の"引き抜き事件"は、カープファンにとっては近年のカープ長期低迷につながった主力選手のFA流出と重なる部分があるのも無理からぬところだ。2016年に25年ぶりのリーグ優勝を果たすまでの間、エースや四番といった主力選手が次々と巨人に移籍し、ファンは球団そのものの存在さえ危ういと感じたこともあった。

 

 左のエース・川口和久、美しい放物線を描くホームランアーチスト・江藤智、カープ在籍11年間で4度の二桁勝利をあげた大竹寛らである。近年では丸佳浩もFAで巨人へ移籍した。全てカープのエースやクリーンアップに座っていた主力選手だった……。チーム事情や経営方針など多様な面も含んでいることはわかっているものの、それでもカープで育った選手が巨人に移籍する悔しさを味わい続けたカープファンは、巨人にいい印象を持っていないのが正直なところであろう。

 

 しかし、時をさかのぼってみると昭和24年オフから、昭和25年のセントラル・リーグ開幕に向かう中、必死に選手集めをしていたカープに手を差し伸べてくれたのも他ならぬ巨人であった。地方の新球団の選手集めなど放っておくこともできた巨人であったが、この時、のちのカープの財産ともいえる大選手を与えてくれたのも事実である。原爆で焦土と化した広島の地にプロ野球が誕生するとあって、選手を譲渡し、カープ創設に大きな手を差し伸べているのだ。

 

 これはカープ考古学では見逃せない史実であり、次回は、巨人からの温情による移籍で、カープ創設に一役かったあの選手のことを新証言を交えて紹介しよう。
(つづく)

 

【参考文献】  『カープ50年-夢を追って-』(中国新聞)、『カープ30年』冨沢佐一(中国新聞)、「広島カープ十年史」(中国新聞)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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