「うちの大学に来れば、ドラフト上位で指名されるピッチャーにしてやる」――平成国際大学・大島義晴監督の言葉を信じ、佐野泰雄は高校で志望届を出さず、平成国際大学への進学の道を選んだ。そして4年後、その言葉が現実のものとなった。地元の埼玉西武から2位指名を受け、幼少時代からずっと目にしてきたライオンズの一員となったのだ。果たして、佐野は大学4年間で何をつかんだのか――。
 人間性も求められるエースナンバー

―― 大学4年間でリーグ戦通算30勝(24敗)をマークしました。ピッチャーとして4年間で追い求めてきたものとは?
佐野: まずはチームを勝たせるピッチャーになるためにはどうしなければいけないかを考えなければいけませんでした。どういうピッチングが、次の攻撃でいいリズムをつくれるのか。最も大事なのは点を取られないことなのですが、その中でもアウトの取り方にもこだわりました。例えば、最後のバッターを三振で仕留めると、次の攻撃に勢いを与えられるとか、あるいは1死一塁だったらゲッツーをとってベンチに帰ると、チーム全体が「よっしゃ!」となって、いい雰囲気で攻撃に移れるとか……。場面場面で、状況を読んで、チームが盛り上がるアウトの取り方を選択する。そしてそれを実行する力がないとプロではやっていけない。そう思って、この4年間やってきました。

―― 3年秋には背番号が18番に替わりました。
佐野: 平成国際大学では、18番がエースナンバーなんです。でも、大島監督が認めたピッチャーだけが18番をつけられることになっているので、毎年18番がいるわけではないんです。現に僕が入学してからは1人もいませんでした。18番をつけるためにはピッチャーとしてだけでなく、人間的にもリーダーとしての資質が求められる。そのために1年の頃からいろいろな本を読んだり、レポートを書いたりしてきました。そうして、ようやく大島監督に認められたのが3年秋でした。

―― 18番の背番号をもらった時の気持ちは?
佐野: もちろん嬉しかったです。でも、18番をもらったからといって浮かれていたら、それまでやってきたことの意味がなくなってしまいます。だから、これまで通りにふるまうようにしていました。ただ、ようやく本当のエースになれたという気持ちはありましたね。18番をつけてきた先輩たちからもいろいろと話を聞いていたので、とにかく平成国際の18番として恥ずかしくないようにしなければと気が引き締まりました。

―― 今に活かされている失敗はありますか?
佐野: 大学2年の春の開幕戦、白鷗大学戦での失投です。8回まで1−0でリードしていて、ピッチングの内容も完封ペースできていたんです。それで気持ちが緩んだのだと思います。9回表、ボールカウント1−1の場面でストライクが欲しいなと思ってカウントを取りにいった変化球をホームランにされたんです。要は気持ちがこもっていないボールを投げてしまった。結局、その試合は延長の末に負けてしまいました。本当に悔しかったです。「なんであそこであんな球を投げたんだろう」と……。その失投で、気持ちの入っていないボールを投げていいなんていうボールは1球もない、すべてのボールには意味があるということを痛感させられました。

―― 一方で自分自身の成長がうかがえた試合は?
佐野: どの試合というわけではなく、4年になってからは、接戦を勝つという試合が多くなってきたことですね。たとえ先取点を取られても、それまでのようにズルズルといかずに我慢をして投げられるようになったんです。そうすると、野手が逆転してくれたりして、勝てる試合が多くなりました。ただ、優勝することができずに終わってしまったことは悔いが残っています。

 参考にしている工藤のカーブと上原のフォーム

―― フォームなど、いろいろな選手を参考にしているようですが。
佐野: はい。例えば、カーブは工藤公康さんを参考にしています。動画でどれくらい腕を振っているのかを見たりしていますね。工藤さんのカーブは真っ直ぐと同じ腕の振りから来るので、バッターにしてみたら真っ直ぐだと思っているところに、ボールが遅れてきてなおかつ浮き上がってくる変化球が来るので、手が出ない。自分がイメージするカーブに一番ぴったりときたのが工藤さんだったんです。

―― ピッチングフォームで参考にしているのは?
佐野: 上原浩治さんです。一番いいなと思ったのは、動作が速いことですね。パッと左足を上げて、パッと踏み込んで、パッと腕を振って投げる。自分は以前、右足をゆっくり上げて、力をためてガンッという感じで投げていたんです。でも、上原さんのようにすると、腕の振りが一定になるんじゃないかなと。実際、上原さんのフォームを参考にしてからは、一定のフォームで投げることができるようになりました。

―― 今、フォームで一番意識していることは?
佐野: 足を上げて立った時です。僕はそこが一番大事だと思っているんです。そこから踏み出していくわけですが、足を上げた時にきちんと決まらないと、しっかりと体重移動することができません。そこでバランスを崩しては、その後の動きも崩れてしまう。逆に、そこが決まっていれば、あとはそのまま前に体重を移動していけばいいだけなんです。

 すべてはプロに行くために

―― さて、地元の埼玉西武で野球をやることになりましたね。
佐野: 西武は埼玉の顔。僕も小さい頃からずっとテレビで見ていました。埼玉県民として、その球団に入れることはすごく嬉しいですし、誇りに思います。

―― 2位という上位指名については?
佐野: ドラフトで上位指名されることを目標にして大学に進学したので、2位という高い評価をしていただいたことは本当に嬉しいです。

―― 高校時代は志望届を出しませんでした。
佐野: 当時は育成での指名の可能性が高いと言われていました。僕としては、育成だろうと何だろうとプロに行けるならそれでいいと思っていたんです。でも、大島監督に「うちの大学に来れば、ドラフト上位でプロに行かしてやる」と言っていただいて、そんな熱い言葉に魅かれて、大島監督の下でやろうと、大学進学の道を選びました。

―― その大島監督から学んだことは?
佐野: 野球の技術的な部分だけでなく、人間性の部分でもたくさん教えていただきました。例えば、1年の頃には箸の持ち方を注意されました。大島監督には「常にプロでやるということを意識しなさい」と言われていたのですが、箸の持ち方ひとつとっても「プロに行ったら、テレビでご飯を食べているところが映ることもある。そんな時、箸の持ち方もできていなかったら、見ている人はどう思うか」と。普段の生活から、教わることばかりでした。

―― 指名された後、大島監督からの言葉は?
佐野: 「おめでとう」のひと言でした。「その世界でやるのはオマエだからな」と。監督には本当に感謝しています。高校時代に声をかけてくれて、大学4年間ずっといろいろなことを教え続けてくれた。大島監督のおかげで今の自分があると思っています。

佐野泰雄(さの・やすお)
1993年1月18日、タイ・バンコクで生まれ、2歳の時に日本に移住。小学3年から野球を始め、和洋高では1年夏からベンチ入りし、同年秋からエースとなる。2011年、平成国際大に進学し、1年春からリーグ戦に登板。同年秋からは主戦として活躍した。大学4年間で通算68試合に登板し、関甲新学生リーグ新記録となる30勝(24敗)を挙げた。4年春には7勝をマークし、最多勝利投手賞、ベストナインを受賞。178センチ、81キロ。左投左打。

(聞き手・斎藤寿子)

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