野球がオリンピックの正式競技に採用されたのは1992年バルセロナ大会からだが、日本はまだ一度も金メダルを獲得したことがない。

 

 しかし、公開競技の1984年ロサンゼルス大会では優勝を果たしているのだ。それも決勝で、地元の米国を倒して。

 

 この時の米国代表には後にメジャーリーグで活躍するメンバーが揃っていた。通算583本塁打を記録するマーク・マグワイヤ、ショートとしてゴールドグラブ賞3回、通算2340安打のバリー・ラーキン、95年に巨人入りし、走攻守三拍子揃ったプレーを披露したシェーン・マック……。

 

 日本はよくこんなチームに勝ったものだ。ヒーローは明治大学4年の広沢克己だった。3対1の8回、ドジャースタジアムの左中間スタンドに3ランホームを叩き込み、金メダルを決定付けたのだ。

 

 表彰式では20人の日本人選手にファン・アントニオ・サマランチIOC会長から金メダルが贈られ、メインポールに日の丸が翻った。

 

 それを誇らし気に見つめていた元赤ヘル戦士がいる。当時は新日鉄広畑に所属していた正田耕三だ。ロサンゼルス大会では1番セカンドで15打数6安打、打率4割と打ちまくった。

 

 正田は監督の松永怜一好みのプレイヤーだった。泥臭いプレーが、「甘えの残る」(松永)学生たちに野球に取り組む姿勢で喝を入れることのできる存在だと、指揮官に評価された。正田は五輪をバネにプロの世界に飛び込み一旗揚げたいという野心を抱いていた。

 

 五輪の翌年にドラフト1位でカープ入りした正田は、古葉竹識監督の指示もあってスイッチヒッターに転向し、2度の首位打者と1度の盗塁王に輝いた。小柄な正田を貫いていたのは金メダリストの誇りだった。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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