昭和24年の年末のことだ。広島カープ最初のシーズンに入る前にファンに朗報が届いた。巨人軍の主力選手であり、逆シングルの名手・白石敏男(のちに勝巳)がカープに移籍するというのだ。カープ誕生前夜ともいえる結成時に、選手の中で唯一全国的に名前が知れ、活躍していた選手といえば、この男しかいなかった。


 前回、チーム創設2年目にカープ退団後、巨人に移籍した樋笠一夫について書いた。樋笠の移籍は巨人による引き抜きであったと、ファンの間にはやりきれない気持ちがあったはずだ、と。樋笠事件としてカープファンの間で語り継がれていくが、この「巨人憎し」との思いとは裏腹に、カープ創設時に、戦前から全国区の選手を巨人から譲り受けていたのも事実である。今回は、巨人の温情により移籍をした白石について書いていこう。

 

 カープ唯一のキラ星選手

 初期の巨人の主力として内野のレギュラーを張った白石なくして、カープは苦難続きの状況を乗り越えられただろうか--。答えは否である。戦力の乏しさゆえにそれは難しかったと判断せざるを得ない。白石はカープ初代の助監督としても監督の石本秀一を支え、さらにその後を継いで二代目監督となった男だ。さらにプレーイングマネジャーとして、戦力が満たされない中で、選手としてもチームをけん引し続けたのである。

 

 巨人の主力選手としてそのまま活躍していれば、将来の人生が約束されていたようなものだが、郷土広島に誕生するプロ野球チームを選んだ。白石はなぜ誕生間もない、海のものとも山のものともつかないカープに移籍したのだろうか?

 

 これには諸説ある。当時の巨人は三原脩が監督として指揮をとっていたが、シベリア抑留から帰還し、長年巨人一筋でやってきた水原茂と、監督の座を巡って微妙な距離感があるとされ、選手らは、その狭間で揺れ動いていた。文献にはこうある。

 

<その頃の巨人軍は、水原がシベリアから帰還したので、三原と水原との間に、監督の座をめぐって、冷戦が続き、いつ爆発するかもしれない状況にあった>(「カープ十年史『球』・読売新聞」)

 

 白石もこの不自然な風を感じていたようだ。自著にこうある。
<ぼくは相談を受けたことはなかったが、「三原は冷たい」と、水原さんを担ぎ出そうとする一派と、三原さん支持者とに選手が分かれて、ことごとく角突きあって、なにかといえば別行動をとり、不穏な空気になっている、ということがなんとなく感じられたものだった>(『背番8は逆シングル』ベースボールマガジン社)

 

 こうした中、三原と懇意な白石は三原が巨人のグラウンドから離れ総監督になり、そうした「三原排斥」の流れの中、自身も巨人を離れるかもしれないと感じてはいたのだ。

 

 読売本社の安田庄司副社長から白石に広島への移籍が告げられた。安田は白石にこう言った。
<「今度広島に新チームを作ることになった」。安田さんは、僕の顔を見るといきなり切り出した>(『背番8は逆シングル』ベースボールマガジン社)

 

「広島に新チームを作ることになった」というのは、あたかも、巨人が作るともとれる発言である。まあ、カープ結成にあたり、巨人の配慮により白石を譲り受けるがなければカープの結成は難しかった。それゆえ当たらずも遠からずと言ったところではある。

 

 結局、白石は巨人から出向という形で広島への移籍が決まった。
<巨人からの出向という扱いにしておくから、帰りたい時は何時でも帰ってよろしい>(『背番8は逆シングル』ベースボールマガジン社)

 

 いつでも帰っていいと白石の感情へ配慮した言葉を安田は付け加えている。
 また、別文献には、当時の巨人軍の球団代表である四方田義茂代表のコメントがある。
<「本人のためになるのならば、なんら異存はありません」>(「カープ十年史『球』・読売新聞」)

 

 こちらも白石の将来を考えたコメントである。

 

 なおこの白石の移籍に際して、広島から巨人へ移籍金、トレードマネーは支払われていない。そのためにも出向という形で解決し、白石は巨人からカープへ無償で譲り渡した選手となった。

 

 ただこの移籍でカープが支払ったものがあるにはあった。それは白石本人へ移籍のための支度金。これはわずか20万円であったという。
<広島の支出は、白石選手に渡した二十万円そこそこですんだのである>(「カープ十年史『球』・読売新聞」)

 

 結果、白石はチーム運営において、困難が続く球団への移籍となった。ここからは白石のご夫人、王江(たまえ)氏の証言を元に話を進めていこう。現在、94歳と高齢ながら神奈川県でかくしゃくとして過ごされている。そのあたりも質実剛健で知られた白石の夫人らしいと納得できる。

 

 カープのチーム結成にあたり、白石は東京に家族を残し、地元広島入りをするという、いわゆる単身赴任だった。

 

「2人の子供が学校に通っていたので」と王江夫人は振り返った。

 

 

 地元の要請に応えた

<写真:広島市中区にある白石の姪、上條房子氏が営む喫茶店「ブルーマウンテン」にて取材の一部を行った>

 白石は、カープの選手寮である観音三菱寮や御幸荘、さらには高陽荘で、選手らと寝食を共にした。筆者の推察ではあるが、新球団カープの財政面が危ういことは薄々知っていた上での入団であり、家族には苦労をかけられまいと東京へ残したのであろう。


 白石は大正7年、母親の出身地、愛媛県松山市で生まれた。その後、広島市の皆実町(現広島市南区)に移り住み、そして、白石は広陵中学に通った。広陵中時代にはファーストを守り、クリーンアップを打った。甲子園では春の選抜で準優勝し、全国に名をとどろかせた。

 

 巨人に入団すればアメリカに行けるという誘い文句を受け、ひょんなきっかけで巨人に入団するが、そこでも花形選手として初期の職業野球(現NPB)で活躍。大阪タイガース(現阪神)との伝統の一戦を築いた立役者となった。昭和11年から、昭和14年までのシーズンの4年間に渡り、名勝負を繰り広げ、後々まで語り継がれるほどの伝説の渦中にいたのだ。

 

 第二次世界大戦では大陸戦線に赴き、無事帰還すると、戦後はパシフィックで球界に復帰し、その後、別府にある社会人野球・植良組で監督を務めた。植良組の指揮を執っていたこの頃、広島の実家のご近所からの良縁があり、白石は王江夫人と結婚することになった。

 

 再び王江夫人。
「私は野球のことはほとんど知りませんでした。主人の実家の隣に、私の父の遠戚のおばがいまして、そのおばの紹介で、私の家に来られました」

 

 この頃、王江夫人の兄が早稲田大学を卒業した後で、東京で野球を見ていたこともあり、兄は妹のこととあって、懸命に「白石」という野球人の情報を集めようと、雑誌などを調べたという。このときのことを王江夫人はこう語る。

 

「(雑誌には)逆シングルの名手と書かれていました。自然と惹かれていきました」

 

 白石は当時、映画俳優ジェームズ・ギャクニーに似ていると騒がれた男でもある。加えて、逆シングルの名手ということを雑誌で見せられ、会うことを決心したという。

 

 この縁談があり晴れて結婚となり、社会人野球・植良組の社宅に身を置いていた白石夫妻のところに、巨人から声がかかった。

 

 王江夫人は語る。
「確か、川上(哲治)さんが訪ねてこられたんじゃなかったかなと思います」

 

 巨人阪神戦の伝統の一戦を築いた盟友とあって、当然ながら、巨人に復帰することになるが、王江夫人の新婚の頃の思い出は、別府の植良組の社宅で連日開催された麻雀だったという。日々、社宅に訪れ卓を囲む若手選手らを監督夫人として、大事にもてなした。「まあ苦労もしましたが、本当に楽しかった思い出なんです」と振り返った。

 

 巨人軍に復帰し、さらに、昭和24年オフには広島カープへの出向を言い渡された。そのときの白石の心境を王江夫人はこう推測する。

 

「やっぱり地元ですからね、広島が。最初は出向社員ですかね。ジャイアンツにいて、広島に行ったんじゃないのでしょうか」

 

 出向といえども、当時は統一契約書がない時代だ。当然ながら、給料については、巨人から切り離され、広島からもらうという扱いだった。

 

 このことを王江夫人に詳細に聞いた。「巨人からの出向期間中は、給料は巨人から出ていましたか」と。

 

「いいえ、広島からですね。そうたくさんいただくことはなかったですかね」と答え、さらに続けた。球団の資金難は王江夫人も感じていたようだ。
「市民の方に、株券を書いていらっしゃったのを、憶えていますね。選手の方が書いていらしておられたと思います。主人もやっていたんでしょうね」

 

 カープでは出資者への株券の宛名書きは、練習後に若手選手らに課せられた使命であり業務であった。助監督である白石も筆を持ち自ら宛名書きをしていたというのは驚きだ。

 

 巨人という恵まれた環境から、何を思い苦労続きの広島への入団を決心したのか? 金銭面ではドライなところもある現代プロ野球からは、なかなかそこを理解するのは難しい。白石の思いを王江さんは語る。

 

「やっぱり地元の人からの要請があったのが大きかったんじゃないですかね」

 

 先行き不透明な復興期の広島であっても、白石は地元の要請があったからこそ、自らがカープを選んだかのようにやってきたのだ。まさに実直で誠実な男のなせることであろう。

 

 移籍前、さまざまなパワーゲームがあったことは露にもみせずに、白石はカープの主力選手として、唯一のキラ星選手として、カープの窮地を、石本監督のそばで助監督として支えながら、チームの歩みを確実なものとしていくのである。

 

 さて次回は、白石が打撃の主軸を担った男であるならば、投手としてチームを支えた人物もいた。小さな大投手といわれたあの男のことを、新証言を交えて紹介しよう。(つづく)

 

【参考文献】 『背番8は逆シングル』(ベースボールマガジン社)、「カープ十年史『球』(読売新聞)
【取材協力】  白石王江、白石武、白石博子、上條房子

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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