昭和25年1月、広島にカープの誕生が広く伝えられ、広島の町はこの話題で持ち切りだった。その喧騒を横目に初代監督の石本秀一は選手集めに奔走し、その中で白石敏男(後に勝巳)という大スターを巨人から譲り受けることに成功した。当時の広島市は人口も30万人に及ばす、田舎町ともいえた広島の野球ファンらも一気に勢いがついた。「あの白石がカープにくるんじゃげな」「逆シングルの名手が広島にやってくるのか」。全国区である白石の話が、復興最中の広島の町を駆け巡っていた。その頃のことだ。

 

 主力打者をなで斬り

 ほっそりとやせ細った青白い顔の青年が、広島駅に降り立った。身長167センチ、体重当時56キロ。彼が驚いたのが、広島の町の景色であった。焼け野原からの復興途中であった広島の町にはガレキが残り、見渡せる広さに驚き、大変な町にやってきたな、というのがその男、長谷川良平の印象であった。書籍から引用する。

 

<駅におり立った瞬間、長谷川は我が目を疑った。あたりは一面の焼け野原。目に飛び込んできたのは、1本の橋と、鉄骨を渡してできた歩道だけだった。(中略)原爆の生々しい傷跡は、そこかしこに残されていたのである>(『カープ 苦難を乗りこえた男たちの軌跡』松永郁子・宝島社)

 

 この長谷川良平と一緒に降り立ったのは、スカウト役としての役目を負った石本監督の義理の弟、熊本秀夫であった。2人は広島市の南部で、観音地区にある広島総合球場(現コカ・コーラボトラーズジャパン広島総合グランド)に向かったのだ。

 

 石本監督は、すぐさま自分の目で確かめるべく長谷川のテストを行った。小柄でとてもプロの投手になろうとは思えない普通の青年が、カープのエースへと向かう第一歩であった。

 

 マウンドに上がる長谷川に対するカープのバッターらであるが、この時、長谷川の目に映り、いらだたせたのは、主力選手らがぬくぬくと焚き火にあたっている姿であったという。

<バッターが焚き火に当たりながら手を温めて出てくることに怒りを覚えた>(同前)

 

 闘争心に火が付いた長谷川である。「よし、やってやろう」とばかり、自身の最大の武器であるシュートを、まさにバッターの胸元をえぐるかのように、投げつけた。対峙するのはカープでも主力選手らである。

 

 次々にキレの鋭いボールをインコースに投げ込んではバットをへし折った。長谷川よりも体躯のいいバッターらをなで斬るかのように打ち取っていったのである。石本監督の目の色がみるみるうちに、変わった。この小さな体には、秘めたる大きな力があると認め、将来を見抜いたのだ。これにより、長谷川のカープへの入団は直ぐに決まったという。

 

 この様子を間近で見ていたのが長谷部稔である。彼はこの数日前に、地元の皆実高校からカープにテストでの入団が決まっていた。彼の証言は現在も、地元広島の講演会などでよく語られている。この時の長谷川の球筋を、以下のように語る。

 

「広島弁で、分かりかりやすく言えば、ヒネた球ですよね。真っ直ぐ球を投げれば、投げられるが殆どこうやる(ひねる)んですね。石本さんがレギュラーバティングをただ、やるんじゃなくて、試合のような感じで投げさせるんですね。そこに、長谷川さんは意地の悪い方でね。もう、夕方が近いんですが、チャッとひねっとる。私ら受けて分かりますよね。ひねっているから、まともなシンに当たらんのんです。冬の寒いときにね。バットのシンを外すために、投げた瞬間、(カーブではずすように)上げたりね。長持(栄吉)さんとか大げさじゃなくて、(打った後)『イター、痛い、痛い』いうてね。そりゃー、ええピッチャーだったですね。石本さんは頭の中に、長谷川はやるどいうて、計算されたと思いますね」

 

 長谷部の証言からも長年、プロ野球を見てみた石本を、わずかなレギュラーバッティングで納得させた圧巻のピッチングであったことがわかる。

 

 ここで素朴な疑問がわいてくる。プロの主力選手らをインコースのシュートでつまらせ、挙句、バットをへし折ったというが、この驚きのピッチングをする若者がどうして、プロに行かず、残っていたのか。ましてや、この年、プロ野球がセントラルとパシフィックに分かれ、前年の1リーグ8チームから、2リーグで、全15球団になった。選手の需要は上がり、まさに引く手あまた。契約金も高騰し、その過熱ぶりが世間を騒がすほどの時期にである。

 

 まさに、長谷川は残りものに福があったかのように、カープにとって掘り出しものとなったのだ。

 

 配給所の量り売り

 プロ野球選手の多くは、甲子園で活躍し、高校卒業と共に、もしくは、花の六大学を始め、大学野球の経験者らが、卒業にあわせてプロ野球の世界に飛び込むことが一般的である。もちろん社会人もあるが、ただ、この流れで頭角をあらわす選手ばかりではないのが、野球史の面白いところである。長谷川は紆余曲折の末にプロにたどりついたのだ。

 

 高校は愛知県の半田商工(現、半田商)を卒業し、社会人野球である安田商店、安田繊維、新田建設、第一繊維などのチームを転々とした。このアマチュア時代に野球部が廃部になるなどの不遇もあってか、脚光を浴びることもなく、結果、遠回りをすることになった。

 

 愛知県半田市にある実家は、雑貨屋を営んでおり、戦時下においては食料や砂糖などの配給所にとって変わられた。この配給所を手伝っていた青年期に長谷川はさまざまな貴重な経験をする。

 

 筆者が2004年に、長谷川本人の取材を試みたときの記録から記す。秤で砂糖の配給分を計っていた時にいつもあることが起こった。
「砂糖なんか計っていると、やれ多いだの少ないだのと、イチャモンがつくんです。間違えんように、必死で目方を見ましたよ」と、当時の取材ノートにある。

 

 戦時中は、生活物資が乏しく人々の目は厳しかった。明日の食い物さえありつけるかどうか分からない日々に、戦々恐々とした大人たちの視線が秤の目方に注がれた。わずかでも配給量が少なければ、怒声を浴びていたのは想像に難くない。その秤の記録を帳簿に記すため、目方と帳簿のにらめっこの日々だったというのだ。

 

 その後、終戦を迎え4年半後のことだ。石本監督の命を受けた義弟の熊本がやってきたのだ。小柄で青白くひょろーっとした顔で、同じように店番をしていたところにである。細身の体をみて、熊本は「最初の印象はがっかりだった」という。しかし、この店で配給帳とにらめっこしていた男がカープの初代エースになっていくのだ。

 

 カープに入団して最初のシーズンに突入した頃の新聞にはこうある。
<配給所の若人は、配給帳を、白球に持ちかえてカープの最も注目される投手>(『夕刊中国』昭和25年4月25日・一部略)

 

 今シリーズの「カープ誕生前夜・選手集め苦難の日々」では、石本監督がいかに選手集めで苦労したのかをお伝えしてきた。チョークをバットに持ち替えた樋笠一夫、コーヒーを淹れるためのサイホンを、再び白球に持ち替えた中山正嘉らに続いて、長谷川は配給帳を白球に持ち替えた男であった。カープはまさによせ集めチームであり、プロ選手獲得ができぬならば、やむにやまれず、元プロのみならず、アマチュア選手を獲得し続けて結成されたのだ。

 

 生前の長谷川に何が自分を成長させたかを、続けて聞いた。自分の厳しさをつくってくれたものは、戦時下のわずかな砂糖の目方にも周囲の目が本当に厳しかったという。こうした中で、「何事もきちんとやらなければいけん」というのを教え込まれ、身についたという。当然ながらプロの投手として、あらゆる修練を積むことにつながる。

 

 長谷川はプロ生活14年間で197勝208敗、防御率2.65という成績を残した。草創期のカープは、打線が脆弱でなかなか勝てないチームは常に下位に低迷していた。苦しい投手事情の中で先発だけでなく、リリーフもこなすなどし、エースとして確固たる地位を築いていくのである。

 

 長谷川はカープに入団するまでの過程にさまざまなエピソードが尽きないのであるが、次回はなぜプロの投手として発掘されなかったのか、という視点での逸話を紹介しよう。長谷川物語の続編は、特にプロ入りのお声がかかったかもしれない、あの時期の話に特化してお伝えする。
(つづく)

 

【参考文献】 『カープ 苦難を乗りこえた男たちの軌跡』松永郁子(宝島社)、『夕刊中国』昭和25年4月25日、雑誌『ひろしまげんき』(トーク出版)平成16年12月20日号

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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