広島カープが結成され、プロ野球セ・パ2リーグ元年となる昭和25年。チーム数が既存の8チームから15チームに膨れあがるとあって、プロ野球選手は引く手あまたで、24年オフ、球界は大混乱と化した。あっちからも来てくれ、こっちからも来てくれと市場が過熱し、引き抜きやトレードが横行した。ようはそれだけ選手が欲しいと求められた年となった。

 

 この時代、日本はアメリカの主導するGHQ(連合国総司令部)による占領下におかれていたが、日本人は戦前から根付いた野球に飢えていたのである。それは広島も例外ではなく、原爆から復興を果たすべく、カープ球団が産声を上げ、市民・県民の期待の下、石本秀一監督は選手集めに奔走した。

 

 しかし、実力のある選手が獲得できるのは、新聞社や電鉄会社などしっかりした親会社の球団が中心であった。カープは1県5市で資金を賄う自治体出資の郷土チームであり、資金力が乏しいことから、プロとして峠を越えた選手や、アマチュアでの有望選手、もしくは隠れた逸材など、他のチームが手を出さない人物を探さなければならなかった。その中でとりわけ注目されたのが、前回取り上げたカープ初代エースとなる長谷川良平である。

 

 レジェンド中のレジェンド

 なぜ長谷川良平という逸材が、他のプロ野球チームから声がかからず、相手にされなかったのか?

 

 長谷川の生涯成績は現役14年間で197勝208敗、防御率2.65。球団草創期、幾度もの存続の危機に脅かされ、打てない、守れないチームにおいて、197勝というのはとんでもない大記録であった。200勝はもちろんのこと、250勝、いや300勝にも匹敵するのではないか。そう現代でも語り継がれている。

 

 長谷川の勝ち星がいかにすごい数字であるか。カープのレジェンドと呼ばれ、球団初の200勝を達成した北別府学の生涯成績は213勝141敗、防御率3.67だ。同じく200勝超えならば黒田博樹は203勝184敗(日米通算・NPBは124勝105敗)、防御率3.51(同・NPBは3.55)。勝ち星だけなら長谷川は彼らには及ばないように感じてしまう。

 

 だが、ここで防御率に注目してみよう。長谷川の防御率2.65は、北別府とは1.02と1点以上の差があり、黒田とも0.86差がある。カープ黄金期に投げた北別府と、メジャーを経験した黒田との単純な比較はコアなカープファンには怒られよう。しかし、草創期の万年最下位かBクラスがお決まりで、打線の援護のない、勝ち星になかなかありつけないカープにあって、長谷川の防御率は特筆すべきものではないだろうか。

 

 この話を長谷川の長男・長谷川潤(本名:純)氏としていた中で、「お父様の凄さとは何ですかね?」と率直な思いをぶつけた。すると意外な答えが返ってきた。
「打撃をみてもらったら分かると思いますが、父は二塁打が多いと思いますよ」

 

 投手として奮闘していた長谷川であるが、勝ち星を伸ばした要因は、打撃にもあったと。子息は「その記録に注目してほしい」というのだ。カープのレジェンド投手の二塁打数と打率は以下のとおりだ。

 

長谷川/31本(1割8分7厘)
北別府/18本(1割3分5厘)
黒田/3本(7分9厘*NPB通算)

 

 いかに長谷川が初期のカープで投打に奮闘していたかである。打率も2割近くあり、自分で打って、俊足をいかし二塁に到達。そして得点に絡んでいくというプレースタイルであった。「打たなければ勝てない」。こうした思いが2割にも迫ろうかという打率になって表れている。

 

 険しい甲子園への道

 さて、本題に戻ろう。長谷川がどこの球団からも声がかからなかった理由は中等野球時代に起因する。いわゆる全国には名を知られていなかったことに尽きるが、本当に無名だったのだろうか。

 

 戦時下、実家の雑貨屋は配給所となり、物資不足の中での接客で精神面が鍛えられたことは前号で述べた。

 

(写真:昭和22年2月の6校リーグ戦の結果。津島市立図書館所蔵/曽根幸三氏提供)

 無事に戦火を逃れ、戦後、長谷川は甲子園出場の夢を追った。昭和22年2月、春の選抜大会に向けた6校リーグでエース長谷川率いる半田商工は奮闘したものの、3勝2敗で補欠校となった。選抜出場校は5戦全勝と一歩抜きんでた享栄商業と、半田商工と同じく3勝2敗の津島中学が選ばれた。

 

 当時の記事を読むと半田商工のエース長谷川の奮闘ぶりは地元ではかなり話題となっており、選考でもセンターラインにスター選手を擁する津島中学と、長谷川が孤軍奮闘する半田商工で議論が分かれた末の選出だった。

 

<愛知県の選考がなかなか決定しなかった。半田にいい投手がいる。投手一人のチームじゃあ困る。投手、捕手、中堅の揃っている津島を選ぶべきだ>(コラム「長所をのばせ」中沢不二雄『長谷川良平ノ記録』)

 

 享栄商業と津島中学が出場することになったこの年の選抜大会は津島市の人々の記憶に今も鮮明に残っている。

 

「この当時のことは、有名な話です。今でも津島市で語り草になっています」と語るのは津島市立図書館の園田俊介館長である。

 

「あの長谷川投手を打って甲子園に出たんだというのは、かつては津島市では皆さんよく語られていました」

 

 のちに長谷川が長くプロ野球の世界に身を置いていたとあらば、当時の関係者には大金星であり、誇れる話として語り草にもなったろう。このときの心情をプロ入り後に長谷川はこう漏らしている。

 

<その時出場させてもらっていたら私もあちこち回り道をしないで、プロ野球に入れたと思います>(同前)

 

 甲子園で脚光を浴びることがプロの近道になることは、当然ながら長谷川の意識にもあり、この経験もプロへの思いを強めた一因だったと想像できる。

 

 その年の夏のことである。享栄商業の主力選手の一部が、年齢制限で夏の大会に出場できなくなり戦力が激減した。終戦から間もなくの大会とあって、学制改革の影響もあったのだろう。享栄商業の失速で注目を浴びたのが長谷川の半田商工と選抜出場の津島中学である。

 

 夏の愛知県大会準々決勝で、半田商工と津島中学が対戦した。結果は相手のスクイズ失敗などもあり、1対0で半田商工が勝った。勢いづいた半田商工は、決勝でも勝利をおさめた。だが、当時は一県一校の代表ではなく、愛知県、岐阜県、三重県で戦う東海大会に勝たなければ甲子園の切符は得られなかった。

 

 ライバル校の証言

 東海大会準々決勝で半田商工は、岐阜商業と対戦した。接戦の末、延長12回、3対4で敗れ、長谷川の夏は終わった。ちなみに岐阜商業の投手は樽井清一、のちにプロへ進み、東急(東映)で活躍した。同校は甲子園でも決勝まで進み、小倉中学に敗れたものの準優勝に輝いている。


 春も夏も甲子園の切符を得られず、長谷川は全国的に注目されることはなかったのである。

 

 この対戦から、おおよそ70年以上の時を経て、岐阜商業対半田商工の会場となった鳴海球場において、実際に長谷川の投球を見届けた人物へのインタビューに成功した。

 

 当時、津島中学野球部に所属していた曽根幸三氏(昭和6年生まれ)である。彼はレギュラーにはなれなかったが、春の甲子園では試合の分析に長けているとあって、スコアラーも打診された人物である(実際にスコアラーは務めず)。

 

--長谷川投手のピッチングはいかがでしたか?
「剛速球という風ではない。コントロールが良くて、打たせてとるピッチャーだったと思います。当時のピッチャーではズバ抜けていて、大きく崩れることはなかった。のちの広島でも同じスタイルですよね」。

 

--投げ方は?
「オーバーハンドからちょっと腕を下げたフォーム。スリークオーターだったと思います。純粋にオーバースローではなかったと思いますけど」

 

--半田商工のチーム力は?
「それほど打力を期待するチームではなかった。目立ったバッターも少なく、半田商工は長谷川とキャッチャーの桑山が目立っていた、守りのチームだったと思います」

 

 想像のとおり半田商工は長谷川のワンマンチームだった。2度も甲子園出場のチャンスがありながら、共にわずかなところで手が届かず……。全国区への道はかくも険しかったというわけである。

 

 ところで、長谷川には地元の中部日本ドラゴンズ(現中日)からは声がかからなかったのか。諸説ある中で、のちの資料にはこうあった。

 

<東海では好投手として知られたが、中日などがためらつたのは、病弱で体格がないというところにあったらしい>(コラム「プロ野球人録」(『長谷川良平ノ記録』)

 

 やはり身長167センチ、体重56キロではワンマンチームで奮闘しながらも、声がかからず、長谷川が望んだプロという舞台は用意されなかった。しかし、カープが選手集めに、あえぎ苦しんでいたこともあり、新興チームで舞台が用意されたのだ。結果、広島という郷土色の強いチームで現役を全うすることになる。

 

 選手集めに苦労した日々を綴った本章もいよいよ大詰めである。カープは長谷川のように、他球団からは注目されない選手らを、あの手、この手を駆使しながら集めた集団であった。次回は策士ともいえるカープ初代監督・石本秀一が手段を選ばずに選手を集めたという有名なエピソードを記そう。乞うご期待。

(つづく)

 

【参考文献】 コラム「長所をのばせ」(中沢不二雄『長谷川良平ノ記録』)、コラム「プロ野球人録」(『長谷川良平ノ記録』)
【取材協力・資料提供】 長谷川潤(純)、津島市立図書館・園田俊介、愛知県立津島高校野球部OB・曽根幸三

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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