皆様、今月も鈴木康友コラムご覧いただきありがとうございます。新型コロナウイルスの影響で全国に非常事態宣言が発令され、休校やイベント中止、外出自粛の日々が続いています。プロ野球も交流戦の開催中止が決定し、開幕は6月中もしくはそれ以降と未だ不透明な状態です。とはいえ今は娯楽よりも命と健康が第一。"伝染らない、伝染さない"ためにステイホーム、在宅で野球を楽しみましょう。

 

 "涙の交代"に万雷の拍手

 先日、NHK BSで2013年日本シリーズ・東北楽天vs巨人第7戦がオンエアされていました。当時、私は楽天の内野守備走塁コーチを務めており、このときほどしびれたシリーズはありません。東日本大震災から2年、しかも球団創設以来初の日本シリーズ進出ですから、開催前から「東北頑張れ、楽天頑張れ」という空気が日本中に満ちていました。それを痛感したのが楽天が王手をかけた東京ドームの第5戦でした。

 

 地元・Kスタ宮城の2試合を1勝1敗で終え、東京ドームで1つずつ星を分け合い、2勝2敗で迎えたこの試合。先発・辛島航が5回無失点の好投を見せ、2対0とリードしたまま6回から則本昂大がマウンドに上がりました。しかし、7回、9回に1点ずつを失い同点。試合は延長戦へ。そして迎えた10回表です。

 

 巨人の4番手・西村健太朗が先頭の則本をフォアボールで歩かせました。西村は2イニング目でこちらとしては「まだ投げるんかい」という感じ。続く岡島豪郎が送って1死二塁。さらに二番・藤田一也が足にデッドボールを受け1死一、二塁です。

 

 次の銀次の打席はフルカウントになりました。タイムリーが出たら同点の場面ですが、二塁ランナーはピッチャーの則本。シリーズ前のミーティングで「ドームではピッチャーもランナーで出ることがあります。そのときスリーツー(フルカウント)で走らせますか?」と聞いたら、監督の星野(仙一)さんは「その必要はないやろ」と言ってたんです。ところがこの局面でベンチを見たら星野さんが「行かせい」と。「エーッ、どうしよう」と。というのもスリーツーからのスタートにサインはありませんから、どうやって伝えれば良いんだと焦りましたね。そのとき頭に浮かんだのが第3戦の前に投手陣をブルペンに集めて行ったサイン合わせです。

 

 打席に入るピッチャーに向けバント、スクイズ、エンドランなど最低限のサインを伝えました。そのときに緊張をほぐす意味で「福山(博之)、お前、シリーズでもピンチランナーあるぞ。これが盗塁のサインや、覚えておけ」と。あくまでその場を和ませるための冗談だったんですが、それを思い出したんです。左手タッチの盗塁のサインを出し、則本もオッケー。相手の西村がボールを長く持ってなかなか投げず、スタートのタイミングがなかなか測れなかったでしょうが、銀次がセンター前に弾き返し、則本は二塁から一気にホームイン。バックホームされたので、スタートしていなければ微妙なタイミングになっていたことでしょう。ともあれ無事に楽天が1点勝ち越しました。

 

 で、ここからが本題です。一塁から三塁に来た藤田が足を引きずっていました。ふくらはぎにぶつけられ、肉離れのような感じで、コーチャーズボックスから見ても「これは今日は無理だ」と。「お前、もう代われ」と言いましたが藤田は「いえ、いけます! いかせてください!」と。そこを「まだ次の第6戦、もしかしたら第7戦もあるんだからここは休め」と説得し、ベンチに戻しました。13年シリーズのドラマのひとつである「藤田、涙の交代」のシーンです。

 

 ベンチに下がる藤田に対してドームの内野席からパァーっと拍手が起きました。この瞬間ですよ。楽天に流れが来ているのをひしひしと感じたのは。ドームだけではなく、日本中が楽天の後押しをしてくれている。そう確信しましたね。

 

 まあ、次の第6戦、ここまで無敗の田中将大がまさかの敗戦を喫するとは夢にも思いませんでしたが(笑)。思わず本人に言いましたよ。「マサヒロ、お前、ここで負けるか」って。でもそのおかげで第7戦の9回表、「ピッチャー、田中」のドラマがあるわけですから神様もすごいストーリーを書いたもんですよ。

 

 第6戦が終わった後、田中が監督室に来て星野さんに直訴しました。「明日、ベンチに入れてください」と。横で私も聞いていましたが星野さんは「お前、それがどういう意味かわかっているのか。ベンチに入るということは投げるということだぞ。わかってんのか?」と3度、念押ししていましたよ。田中も「わかってます」と。

 

 NHK BSで第7戦、8回裏終了からのシーンを改めて見ました。星野さんがベンチを出て球審に近づいていく。ベンチで見ていたそのときのやりとりは今も耳に残っています。
「うちの抑えは誰がおるんや?」「監督、青山ですか、斎藤ですか?」「まだおるやろ」「え!? いくんですか?」「たなかぁ!」

 

 その後の球場のざわめきと大歓声、ベンチの中にいた全員がウルッときた瞬間でしたね。選手、コーチとして日本シリーズに14回出場しましたが、どれが一番かといえばやはり13年のシリーズにとどめを刺します。

 

 楽天時代を振り返ると星野さんは本当に最高のリーダーでした。厳しさはありますが、「責任は全部オレがとる」というスタンスで、コーチ陣を信頼し任せてくれました。それに決断も早く、スピード感がありました。

 

 今、コロナ禍で国難と呼ばれる状況です。こういうときこそ組織の長には真のリーダーシップが求められるのでしょう。星野さんがNPBのコミッショナーなら……、という声は御健在のころからありました。先日、Twitterのフォロワーさんからこんなメッセージが送られてきました。「星野さんが総理大臣だったならどんな政治を展開して、有権者にどう評価されていたか。熱い心で様々な問題に対処していたと思います」。今さらながら星野さん、逝くのが早過ぎましたよ……。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2020年東京五輪(1年延期)の聖火ランナー(奈良県)でもある。


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