誕生して間もないカープが幾多の存続の危機に立たされることがあっても、初代エースの長谷川良平は決して逃げることなく、「勝つ」ことだけを使命としてマウンドを守り続けた。ときには自らのバッティングと俊足を生かして、ダイヤモンドを駆け抜け、自ら生還することも少なくなかった。


 決してあきらめない姿勢で、草創期の"打てない、守れない"弱小カープをけん引し続けた。この裏側には戦時中に配給所となった自宅の雑貨屋「和泉や」で周囲にどやされながらも、塩や砂糖の目方を見続けたことにあったのは、これまで伝えた通りだ。

 

 苦しくとも、いくら逃げ出したい気持ちがあってもそれが許されない。勝つことだけを、求められた戦時下において、戦争を経験した日本人の心身は実に強いと、筆者は各氏への取材を通し実感している。

 

 近年では戦時中の話を聞く機会がめっきり減っているが、長谷川にあっては、戦場に銃を持って立った兵士でこそないが、本土で銃後を守り、強い精神が磨かれた少年期を過ごしていた。

 

 昭和12年、盧溝橋事件を発端とした支那事変最中の大日本帝国下にあって、長谷川は戦意高揚のための戦勝祈願の役目を担ったという。今回は長谷川良平獲得秘話の番外編として、過去に語られていない少年期のエピソードをお届けしよう。ただ、単なる逸話などという一言では片付けられない、のちのカープの大エース・長谷川を形成した出来事である。

 

 戦時下の証言

 一般的にプロ野球選手は幼い頃、ドラマチックな野球の名場面にでくわし、そこでヒーローに憧れ、自分もプロにと夢見ることが多い。長谷川少年も小学校6年時、目を輝かせながら、グラウンドの白球を見つめた経験がある。長谷川が育った愛知県半田市亀崎地区は、戦前から野球熱が高いところで、野球少年をうならせる劇的なまでのヒロイズムに出会う機会があった。

 

 昭和16年春の選抜大会において亀崎地区に朗報が伝えられた。
 東邦商業、選抜甲子園大会、優勝--。

 

 凱旋の際には歓迎の祝いで沿道は人であふれたという。その盛り上がりも冷めやらぬうちに、亀崎地区でアマチュア野球の強豪であった亀崎倶楽部と東邦商業の一戦が実施され、会場の亀崎小学校は黒山の人だかりとなった。

 

 甲子園優勝チームともなれば、一般の野球チームとの試合は難しかったはずだ。なぜ長谷川の地元チーム亀崎倶楽部との試合が開催できたのだろう。ここからは長谷川の幼馴染である新美明康氏の証言をもとに話を進める。

 

 新美氏は長谷川とは亀崎小学校時代の同級生で、当時、実家は藤友呉服店を営んでいた。現在91歳ながら、実に記憶と口調が明瞭で、長谷川のことを親しみ込め当時のまま「良ちゃん」と呼ぶ間柄である。

 

 昭和16年、東邦商業は玉置玉一と池端忠男のバッテリーを中心にチームがまとまり、選抜優勝を果たした。新美氏の記憶によればレギュラーメンバーのうち4人が亀崎地区出身者だったという。東邦商業の優勝した選抜は、愛知県の野球レベルの高さを全国に示した大会でもあった。決勝戦で東邦商業と戦った相手は、同じく愛知県の一宮中学であった(スコアは5対2)。

 

 その東邦商業のチーム主力の約半分が亀崎地区の出身とあらば、親善試合の話はトントン拍子に進んだ。もちろん町は地域総出で出迎えての凱旋祝賀試合となった。しかし、当然ながら、歯が立つはずがなかった。

 

「試合は、亀崎倶楽部が東邦商業にコテンパンにやられていましたよ」と新美氏は振り返った。しかし、この一戦をじっと見つめていたのが、長谷川だったという。
「このときの試合で、良ちゃんが野球に目覚めたんじゃなかったかな。町の人のほとんどが見にきてたから」

 

 しかし、時代はキナ臭い流れが日本国を覆っていた昭和16年である。この年の12月には真珠湾攻撃が起き、第二次世界大戦へと向かう。この大戦以前、昭和12年のことだ。中国戦線で奮闘する兵隊さんを心身ともに応援せよとばかり、全国各地で戦勝祈願なる提灯行列や、千人針を縫う姿が見られた。そんな時局、長谷川と新美氏が、小学校も低学年から中学年になる頃のこと、戦勝祈願の大役を課せられたというのだ。

 

 人選理由は分からない。何事も口答えが許される時代ではなかった。担任の先生から呼び出された2人は「戦意高揚ために戦勝祈願のお参りをせよ」と命じられた。「神前神社に、夕方行くように」とも付け加えられた。

 

 要するに、夕方になると毎日、2人で拍子木をカチカチと鳴らしながら、戦勝祈願に神社まで行きなさいというのだ。道中、2人で口ずさむのは軍歌「露営の歌」であった。

 

「勝ってくるぞ、と勇ましく、誓って、故郷を出たからからは、手柄立てずに死なりょーか」

 

(写真:長谷川と新美が戦勝祈願のときに使った拍子木。「亀崎警防団」の刻印がある。所蔵:新美明康)

 次第に口ずさむどころではなくなる。2人の声は大きな雄たけびとなり町内に響き渡った。1人は提灯を持ち、1人はカチカチと拍子木を打ちならす。神前神社に到着すると、さあと禰宜に促され、奥殿の御座所まで上げられ、そこで禰宜が祝詞を上げ、共に戦勝祈願の祈りを捧げた。

 

 帰り道も軍歌の雄叫びを上げながら、亀崎の地の魂よ、中国戦線にまで届けの思いであったのだ。

 

 その後、大戦末期には国家総動員体制の下で学徒動員令が出され、新美氏は中島飛行機の軍需工場で、艦上偵察機「彩運」や、艦上攻撃機「天山」を組み立てる毎日だったという。まさに青春を学徒として御国に捧げたのである。この頃、長谷川も学徒動員されていたのだろうか。

 

「たしか良ちゃんは、学校自体が、部品工場ということになり、半田商業の校舎において、部品をつくらされたと思います」と、新美氏の記憶にはあった。

 

 長谷川は戦地に駆り出されることはなかったが、戦争に捧げた少年期の戦勝祈願の出来事があまりに大きく、「長谷川良平」という人物形成を左右したのではないかと推察する。

 

「毎日、戦勝祈願行ったことがね、後年、カープの大エースになることにつながったかもしれない。それからは遠慮して電話できなかったねー。広島に行ったときも、電話せんかったね」と新美氏。お互いに戦争で勝つことを誓いあった日々から、平和な時代が訪れ、大人になったが、長谷川に遠慮してか、2人の関係は遠ざかったという。

 

(写真:神前神社の境内で、半田商業の上級生らと一緒に撮影(昭和18年頃)。2列目左から2番目が新美。2列目右から5番目が長谷川)

 しかし、長谷川良平という、身長167センチ、体重56キロで、ほっそりとした青白な青年が、カープの草創期の屋台骨となり、幾多の存続の危機を救い、さらに通算197勝というとてつもない勝ち星をあげていく。原点は少年期の戦勝祈願のようにも感じる。

 

「勝ってくるぞ、と勇ましく、誓って故郷を出たからは」とばかり愛知県半田市を離れ、広島で孤軍奮闘する姿は、カープのオールドファンの記憶に残っていよう。長谷川のマウンドでの奮闘は、戦時下、不平不満など一切もらさず、強く生きてきたことがベースなのだ。

 

 この戦勝祈願の祈りは、夏の暑い日、冬の寒い日、いついかなる時でも、1年半続いたという。プロ野球選手になって、毎日の行動習慣が身についていたのか、夜のトレーニングを欠かさなかったという言い伝えも残る。長谷川の心身鍛錬には戦勝祈願の毎日が大きく影響しているのは間違いないだろう。

 

 心許す長谷部の入団

 長谷川は、プロ野球の世界に入ってから、人とつるんで行動するのを特に嫌った。チームメイトから離れ、単独で行動することが多かった。

 

 マウンドでは何人にも負けずと堂々の投球であったが、プライベートではことごとく人を避けて、孤独な時間を好んだとされる。その中で、唯一心を許した人物がいた。同期入団の長谷部稔である。

 

 長谷部は、地元広島の皆実高校野球部出身のキャッチャーで、カープのテストを受けて入団した。強肩強打で鳴らした高校時代とうってかわり、プロではもっぱらブルペンで、長谷川の球を受け続けた。いわゆるカベの役割を担った我慢の男である。

 

 そうした辛抱強さゆえに、ハデなプロの世界でありながらも、口が堅く、周囲から信頼される人物であった。現役こそ7年間と短く、花開かなったが、長谷川が何かにつけ、心の内を話すことが多かった。

 

 その長谷部の入団の経緯は今も地元広島で語り継がれている。昭和25年1月16日から3日間にわたって行われた入団テストの後に起こった、石本秀一監督によるテスト生の囲い込みともいうべき、必死の作戦によって入団した1人である。

 

 カープは自治体出資型の郷土チームとあって、資金には乏しい。選手獲得に費用がかけられなかったのは、過去に述べてきた通り。3日間のテストで、最後まで残り合格したのは5人で、呼ばれたのは監督室だ。若者らは正座して石本監督と向き合った。以下、長谷部の回想である。

 

「テストの3日目にね、最終的に5名残りましたね。はあ、夕方ですね。キャンプ練習のしまい頃ですから。監督部屋に5名呼ばれたんです。石本さんは大監督じゃ思うから、私ら、正座しておったんです」

 

 現在のプロ野球ならば、プロとしての心得や、今後のプロ生活について、練習についてなど話があるだろう。

 

「野球の話は少しね、プロ野球というものはと、ちょろっと話しただけ。それでいきなりハンを押せ、ハンを押せいうて言うが、判子を持ってきとりゃーせんですよ」。

 

 ここで石本から出されたのは契約書だった。いきなりそこに判子を押せと突きつけられたのである。長谷部は続ける。

 

「それで、みんなが呆れたのか、5人が顔を見合わせちゃーね。これは母印を押せいうのは解かりますね。それでね、お前なんぼやるけえ入れとか、給料なんぼでどういう待遇で、そんなことはいっさい言わない」

 

 1月の陽は短かった。刻々と時間だけが過ぎる。石本と、テスト合格選手らのにらめっこは続いた。

 

「夕方、日が落ちるのが早いんです。足はしびれるしね。はあ、足の感覚がなくなりましたね。なんぼう、他の者がいうても、ダメよね。とうとう、私が最後に、『こんな大事なことだから、親に相談せにゃーならんけー、帰してくれ』。そう言うてもダメでね。全然相手にしてくれない。帰してくれんのんじゃ」

 

 文字通りしびれを切らして、契約書に母印を押した5人は、帰ることを許された。我慢し続けた足のしびれで、体が支えられない状態になり、バタバタと倒れる始末だった。長谷部は踏ん張って、ただ立っているのがやっとだったという。

 

「3時間ぐらい。正座してみたら、感覚も何もないですよ。寒いときですし。いやー、石本さんはしぶとい人だった」

 

 こうして、長谷部らは監禁ならぬ、なかば軟禁状態で入団させられることになったのである。カープの苦労は球団創設時からで、お金がないながらも選手を集めなければならなかったのかが、実によく分かるエピソードである。もし仮に現代であれば大問題にも発展しかねない。しかし、金はない、選手は必要という境遇に置かれながら、外部からの入れ知恵による契約金高騰などを防ぎ、選手を集め続けた石本監督にしてみれば、名采配であったといえよう。無い袖はふれぬことから、有る知恵を振り絞ったのだ。

 

 次回のカープの考古学においても、その名采配ともいうべき、カープの人集め作戦を紹介する。チーム結成、選手集めに苦労した草創期のカープならではのエピソードである。

 

【取材協力】 新美明康

【講演記録引用】 古田公民館「いきいきプラチナ塾」長谷部稔氏講演(令和2年1月25日)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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