カープが選手集めに苦労したのは、原爆から立ち直る復興期に、カープを単独で支える企業が広島に存在しなかったことが大きい。いわゆる資金難であった。ならば県民待望のプロ野球チームの設立はどうしたのか……ということになるのだが、カープ創設にあたり出資者となったのは、過去にも述べてきたように広島県、広島市、呉市、福山市、尾道市、三原市という自治体であった。

 

 これら自治体で議会にかけられ、議決を経てカープ創設の資金が集まっていったのだ。このことは、本コラムの第8回に詳述した。当時、この言葉があったかどうかは不明であるが、いわゆる"公設民営"という手法によって、県民や市民の球団として立ち上がったのだ。

 

 この1県5市の出資は、いわゆる株主的な扱いになる訳だが、一般的な株主であれば、株主総会に出席し、経営や事業運営に口出しをするのが常であろう。カープ設立にあたり、「お金を出すなら、選手を入団させてはどうか?」と出資者である三原市から声が上がった。これによりカープに入団した選手がいたのだ。

 

 吉岡隆徳のお墨付き

 松野保(たもつ)--。三原高校出身で身長164センチ。右投げ右打ち、俊足の外野手であった。ところが、彼の公式戦出場記録はゼロ。挙句、1年で退団している。正式にいうと入団からカープ在籍期間はわずか9カ月であった。

 

 松野保は昭和4年生まれ。終戦後に浮城中学(のちの三原高校)に入学した。ここで俊足外野手として活躍し、打順は長男・諭氏の証言によると「六番、七番が多かったと聞いています」とのこと。

 

 この頃の記録は少ないが、『広島商業高校野球部百年史』の記録をみると、昭和21年夏、広島県大会準決勝で、広島商業と対戦し、2対3と惜しくも敗れた記録が残っている。

 

 第二次大戦中、空襲を受けなかった三原市にあって、戦前から根付いていた野球は戦後すぐに復興を果たし、強化していたというのだ。

 

 再び、松野諭氏。「当時、高校野球の練習でさえ、地元の人が大勢集まっていたそうです。戦後すぐに慶應義塾大学の選手らを、地元の名士の人らが招いて、練習をさせたりしていました」

 

 地元の名士らの働きの甲斐あってか、昭和29年には見事に甲子園出場を果たしている。三原高校の歴史でいうならば、創設から現在に至るまで唯一の出場記録となる。

 

 こうした三原市の環境下で、青春時代を過ごした松野保であるが、あまりにも俊足であるが故に、「野球部員であると同時に、短距離走の選手にも選ばれていました」とは、妻のサチコ氏と、長男・諭氏の証言である。ここからは2人の証言を元に、カープ入団の歴史をひも解いていこう。

 

 松野保は三原という田舎町で育ち、小さい頃から足が速く、地元では有名な存在だった。学制改革による六三三制になる前の浮城中学(三原高校)に通った。当時、運動ができる生徒は、部活動の"かけもち"をすることも珍しくなく、彼も陸上部と野球部を行ったりきたりする日々を過ごしていた。

 

 高校2年生では、石川県で開かれた第2回金沢国体の短距離選手に選ばれた。当時、上位入賞を果たした選手らもいたというが、長男・諭氏の証言によると、「(彼らに)負けず劣らず、自分も速かった」と言っていたという。

 

(写真:松野保が高校2年で陸上部員として国体に参加した金沢にて。右上、部旗を持つのが松野<所蔵:松野サチコ>)

 高校3年生になり野球部、陸上部と頑張る松野であるが、野球は当時、強豪とされた下関商業に中国大会で敗れ、本人は陸上に絞って、第3回福岡国体へ照準を合わせて練習した。

 

 三原市からの売り込み

 浮城中学は昭和23年に学制改革により三原高校へと生まれ変わっていく。この過程で松野に悲劇がもたらされる。
「新設高校とあって歴史がない中で、国体出場の手続きが遅れたらしいんです」と諭氏。

 

 手続きの不備で福岡国体の出場権を失った松野。しかし、これにはどうしても参加させたい、松野を出場させなければと動いたのが、"暁の超特急"の異名をとった昭和7年ロス五輪ファイナリスト・吉岡隆徳だったという。

 

「吉岡隆徳さんは以前、三原高校に指導に来られ、直接指導を受けた縁があり、手続き上の問題で、出場できないのは惜しいからと、大会の方にかけあってくださったそうです」(諭氏)

 

 しかし、当時の規律を重んじる体育競技の世界とあって、申し込み規定は守らねば、と厳格なルールにより、松野の参加は許されずに不参加が確定した。諭氏はこう振り返る。

 

「残念だったというのは、親父から聞きましたが、何よりも吉岡さんから直接の電話があって、動いて下さったというのは驚きました」

 

 申請の不備に敗れ松野の陸上選手としての青春は終わった。大学陸上部からの引き合いもあったらしいが、先輩から直接話をいただくよりは、学校を通じてということで、なかなかうまくいかないまま、結果、松野は地元の会社に就職した。カープから話があったのが、この1年後のことである。

 

 当時、三原市が予算計上してカープに出資したのは50万円であった。この時のやりとりに関する詳細な史料は見つかっていないが、「三原市から出資をしておるのだから、選手を入れるのが当然ではないか」。球団に対し、こんな申し入れがあったのではないかと筆者は推測している。

 

(写真:カープの選手としてユニホームを着た松野保<所蔵:松野サチコ、撮影:中国新聞社>)

 2014年、地元広島のテレビ局RCC中国放送で放送された番組では以下のような証言があった。
「持ち前の俊足に加え、三原市がカープに出資した縁で入団した松野さん」

 

 当時、三原市には強打の選手もいたし、2年下に小林靖臣投手(のちに阪急)もいた中で、松野に白羽の矢が立ったのは石本秀一監督からの一言があったからだという。

 

「『足の速いのは誰か?』と言われたと聞いています」(諭氏)

 

 筆者がかつて取材から得た情報では、カープが代々選手たちをスカウトする際には暗黙の了解というか目をつけるポイントがあった。それは足が速い、腰回りが太い、さらに、体のキレがいいというもの。こうした選手を鍛え、育て上げるのがカープのモットーだと聞いた。松野は足だけは速い--。一芸に秀でた選手に目を向けた石本。これは、のちにカープの伝統ともなる、走る赤ヘル野球へと継承されていくのであろう。当時から、やはり石本は足を使ったそつのない野球を目指していたのである。

 

 生かせなかった俊足

 話をまとめると、カープは自治体に金を出させ、その出資者である自治体からの推薦により、一芸に秀でる足の速い選手を選んだ。それが松野保だったのだ。

 

 ところが、彼が陸上選手として背負った過去の不運は、カープ球団での悲劇にも重なっていくのである。

 

 カープは初年度から資金難となり、2軍を切り離す、いわゆる、当時でいう口減らしを断行することになる。結果、退団に追いやられたのが松野保である。このカープ2軍の悲劇についてはのちにこの連載で詳細に記させていただく。

 

 筆者は以前、球団職員として昭和27年から、昭和59年まで、裏方として奮闘し続けた渡部英之(退職時・総務部次長)から聞いた話は鮮烈であった。

 

「カープに入団させるのは、ただの選手ではないんです。例えば、この選手を入団させれば、お得意様であるお肉屋とつながりができて、お肉が仕入れられるから、とか。この選手を入団させられれば、観音地区はネギが特産だから、ネギの仕入れに困らないから、とか。とにかくタダで入団させる訳ではなかったんです」

 

 いわゆる彼らを入団させることで、球団運営にもメリットがあり、さらに食材や特産品、さらに行政からの出資もあるというのが、当時、復興最中の貧しい広島の手法とされた。単に野球ができる、単にうまいというのではなく、常に球団運営上に役立ち、さらに地元とのつながりができる選手らには目がなかったという訳だ。

 

 渡部は筆者にこう語ってくれた。
「本当にプロいうても、当時は倶楽部チームのようなかったですよ」

 

 このような、自治体からの出資や、食材など経済的なつながりをつくるなど、他のしっかりとした親会社を持つ球団。たとえば読売や阪神ではとうてい考えられまい。これも広島の市民球団たる所以といえよう。原爆から復興に向け立ち直っていく中で、選手獲得にあたり、地元とのつながりをつけながら、どうにか、こうにかカープを育んできたのだ。

 

 さて選手集めに苦労の日々もいよいよ次回がクライマックスとなる。選手もようやく揃い、チーム体制が整ってきたが、本当に選手集めに苦労していたという最高の逸話を紹介しよう。乞うご期待。

 

【参考文献】 『広島商業高校野球部百年史』、『V1記念 広島東洋カープ球団史』(株式会社広島東洋カープ)、『三原高校のあゆみ』(広島県立三原高等学校創立90周年記念誌編集委員会)
【参考映像】 RCC中国放送 被爆70周年プロジェクト番組「未来へ」第11回「それぞれのカープ物語」(2014年6月27日放送)

【取材協力】 松野サチコ、松野諭

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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