(写真:42歳までプレーした原動力は「ラグビーをすることが好きだった」という)

 ラグビーW杯3大会(2007年フランス、11年ニュージーランド、15年イングランド大会)に出場し、ジャパン最多の98キャップを持つ大野均が現役引退を発表した。発表の4日後、22日にWEB配信で記者会見を行った。大野は「選手として、やり残したことはない」と語り、今後は「自分にしかできない道を見つけ、ラグビーに貢献したい」と話した。

 

“鉄人”がユニホームを脱いだ。今月18日に引退を発表していた大野は、スーツ姿で会見に登壇し、こう挨拶した。

「大学からラグビーを始め、素人同然の私を東芝ラグビー部が誘っていただいた。社員の皆様をはじめ、多くの方々に励まされ、ここまで頑張ってくることができました。『灰になってもまだ燃える』が私の信条ですが、1年ほど前からヒザを痛め、昨年末より別メニューで調整しても回復が見られなかった。昨年のW杯での日本代表の躍進もあり、東芝内でも若い選手の台頭が見られ、頼もしく感じていました。“これ以上、選手としてやり残したことはない”という思いを感じ、引退を決意しました。これまでの長い間、東芝ブレイブルーパス、日本代表でのプレーを多くの方々に応援していただき、頑張ってくることができました。スタジアム内外で掛けられる声援のおかげで、ここまで現役を全うすることができました。大野均として、自分にしかできない道を見つけ、日本ラグビー界に貢献していきたいです」

 

 ピッチでは激しく、ピッチ外では優しく。ハードワークを厭わぬ姿に、多くのファンから愛されてきた。不惑を迎えても現役を続けてきたが、身体は悲鳴を上げていた。現役引退は「誰かに相談したことはない。身体と向き合った時に判断した」と語った。本人によれば、1年前からヒザの痛みは慢性化しており、昨年末からは走ることすらままならなかったという。

「1月にトップリーグが開幕し、漠然と“今シーズンが最後になるのかな”と思いながらシーズンを過ごしてきました。長期にわたって、治療や調整を続けていく中、それでも回復が見られなかった。ふと朝起きて、走ろうとすると2、3歩走っただけでヒザが痛い。“ここが潮時かな”と感じました」

 

 100キャップの大台には、わずかに届かなかったが、98キャップはジャパン歴代最多記録である。日本大学工学部入学後にラグビーを始め、日本を代表するラガーマンへと成長した異例のキャリアだ。

「パスやキックが下手な中で、どうやってチームに貢献したいか。それを考えた時に自分の中ではシンプルだった。もしかしたらパスやキックが上手だったら、プレーの選択で迷い、ここまで長く現役を続けることはできなかったかもしれないですね。自分が所属したチームは魅力的だった。“このチームで勝ちたい”と思える人たちが集まった集団だったので、“チームのために自分ができることを全て投げ出そう”という思いでずっとやってきました」

 プレーの激しさを徹底し、身体を張り続けた23年間だった。

 

 駆け抜けたラグビー人生に後悔はない。

「ラグビー人生を振り返り、これだけ多くの試合を素晴らしいスタッフと選手たちと戦うことができ、多くのファンの方に応援していただいた。それに対しては感謝しかありません」

 今後については未定だが、大野は「東芝が王座奪還するために何かしらのサポートをしたい。地方にも出向いて、ラグビーの人気を上げる活動にも尽力したいです」と抱負を述べた。指導者への興味を問われると、「コーチについての要請があれば考えたいと思っておりますが、今のところ、その予定はありません」と答えた。

 

 近年の日本ラグビーの躍進を支えたロックだった。現役を去る42歳の大ベテランは「日本人ロックの活躍を楽しみにしています」と、後輩たちに温かいエールを送った。

 

(文/杉浦泰介、写真提供:東芝ブレイブルーパス)