「節目節目で辞めたいと思っていた。中学もハンドボール部に入るか迷いましたし、高校や大学でも“やらない”と言っていましたね」

 そう大山真奈は15年以上も続いている競技人生を振り返る。辞める機会は何度もあったが、彼女がハンドボールから離れることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 2008年春、香川第一中学卒業後に進んだ高松商業は、全国大会常連の県内屈指の強豪校だ。高松商の田中潤監督(現・高松中央)は中学2年時からジュニアオリンピックカップの香川県選抜に選出されていた大山に光るものを感じていた。

「器用な子でしたね。球技的なセンスは、彼女の学年の中では一番良かったと思います」

 

 香川県では進学に際し、選手に直接声を掛けることはできない。そのため、田中監督は香川一中の学年主任を通し、彼女を高松商に誘った。

「高商には厳しいイメージがあり、ギリギリまで近所の高校に行くかどうか悩んでいました。でもやるなら強いところに行きたいという思いもあり、高商に決めました」(大山)

 

 実際に入学してみると、大山は「思っていた以上に大変だった」という。「練習も厳しいし、ついていくのに必死でした」。高松商業のハンドボールスタイルは“走って守る”だ。速攻練習は毎日課された。部活を終え、ヘトヘトになって家に帰る日々を過ごしていた。入学当初の大山は線の細さが課題だった。

「毎朝体重を測るんですが、体重が落ちていると練習に参加できませんでした。だから身体を大きくするため、必死に食事を摂り、ウエイトトレーニングに励みました」

 

 兎にも角にもガムシャラに取り組んだ。現在のプレースタイルも高松商で身に付けた。

「泥臭さは特に高商で学んだことかなと思います。私はエリートじゃないですし、バンバン点を獲ってくるタイプでもなければ、ズバ抜けた巧さもない」

 彼女がハンドボールの世界で生き抜く術のひとつが泥臭さだったのだ。

 

 高松商でも大山は、中学時代と変わらずエースポジションのレフトバック(LB)を任された。田中監督はその意図をこう明かす。

「同じ学年の中で点が獲れる。大山の特長をいかすならセンターだったかもしれませんが、チームにはセンターをやれる子は他にもいました。一方、エースポジションを任せられる子は彼女しかいなかったんです」

 

 大山はすぐに頭角を現すと、1年時の冬、全国高校選抜大会で攻撃の中心として活躍し、チームの3位入賞に貢献した。2年になると、全国高校総合体育大会(インターハイ)で2回戦敗退に終わったが、香川県選抜として出場した新潟国体では少年女子の部で3位入賞に導いたのだった。

 

 誓った恩返しの日本一

 

 順風満帆に成長の階段を駆け上がっていくかと思われた。ところが、大山に試練が訪れる。2月、全国高校選抜の四国予選のアップ中に大怪我を負ってしまう。シュート時の着地に失敗し、左膝を負傷した。診断の結果は前十字靭帯断裂――。前十字靭帯は、膝関節で大腿骨と脛骨を結び、膝を安定させる役目を果たしている。リハビリを含め、完治まで1年以上かかる選手もいると言われる重傷だ。

 

 大怪我にも関わらず、気持ちを切らすことはなかった。大山は早期の回復を目指し、石川県の木島病院で手術を受けた。

「一般的に半年以上かかると言われていましたが、木島病院ではわずか4カ月で復帰した人もいると聞きました。できればインターハイに間に合わせたかったので、手術することを決めました」

 春を迎えた頃、大山は病院で出会った医師やトレーナーに影響を受け、理学療法士を目指すことを決めていた。高校卒業後はハンドボールを辞め、専門学校の進学を考えたのである。

 

 一方で、ハンドボールを続けるという選択肢も頭になかったわけではない。不完全燃焼の想いは日に日に膨らみ、大山は夏を前にある決断を下す。

「怪我をして思うようなプレーができず、納得することができていなかった。“田中先生に恩返しをしたい”と思いもあり、先生の母校である大阪体育大で日本一になると決めました」

 大体大OBの田中監督は、現役時代2度のインカレ準優勝と“日本一”にあと一歩届かなかった。恩師への恩返しをするために、大体大での進学を希望したのだ。

 

 6月頃、大山が大体大進学を希望した時、大学側も彼女を受け入れる意思を持っていた。実は既に大体大の楠本繁生監督が高松商の田中監督に「彼女を預からせてほしい」と声を掛けていたのだ。その時は大山が理学療法士を目指し、専門学校進学を決めていたため、話はまとまらなかった。一度は“破談”になったものの、大体大とは結ばれる縁があったのだろう。

 

 楠本監督は、京都の洛北高校の監督を務めていた頃から、練習試合や合宿などで大山と顔を合わせていたことも大きかった。大山が1年時に活躍した全国高校選抜準決勝でも対戦しており、楠本監督は彼女を「球技センスがあるな、と感じていました。“これからどういった選手になっていくのかな”と成長を楽しみにしていた1人」と高く評価していたからだ。

 

 高校卒業後の現役続行を決めた大山だが、田中監督からは「インターハイには出さない」と告げられた。

「病院の先生からは『試合に出られるよ』と言われていたので、ショックでした。もちろん先生が将来のことを考えて出さないということは理解できたのですが、インターハイは高校の集大成で、そこを目標にしていましたから」

 田中監督も苦渋の決断だったに違いない。エース大山不在で戦った高松商のインターハイは、2回戦敗退に終わった。

 

 最後の夏はコートに立つことすらままならなかったが、秋の千葉国体で復帰を果たす。出場した2試合はいずれもチーム最多得点を記録したが、万全の状態とは言えなかった。大体大の楠本監督は「持っている力のうちの半分ぐらいだったんではないでしょうか。まだ膝が痛々しいイメージもありました」と当時の印象を述べた。

 

 11年春、大山は大体大へ進んだ。大体大進学は転機だった。楠本監督の指導を受け、様々なポジションを経験することで、オールラウンダー、そしてCBとしての素質が花開いていった。

 

(第4回につづく)

>>第1回はこちら

>>第2回はこちら

 

大山真奈(おおやま・まな)プロフィール>

1992年12月7日、香川県高松市生まれ。香川一中で本格的にハンドボールを始める。3年時に全国大会出場。高松商業では全国高校総合体育大会(インターハイ)をはじめ数々の全国大会に出場した。大阪体育大時代は3度の日本一を経験。15年、北國銀行に入団。オールラウンドな能力を買われ、早くから出場機会を掴み、日本リーグなど数々のタイトル獲得に貢献した。16年に日本代表デビュー。世界選手権は17年、19年と2大会に出場した。19年度の日本リーグベストセブンを受賞。北國銀行では今シーズンよりキャプテンを務める。ポジションは主にセンターバック。右利き。身長164cm。

 

(文・競技写真/杉浦泰介)

 

 


◎バックナンバーはこちらから