「楠本先生には4年間でハンドボールはどういうものかを教えてもらいました。それと同時に人としても成長させてくれた。私は今、先生に教えてもらったハンドボールに、自分で学んだことをプラスしながらプレーしています」

 大山真奈(現・北國銀行Honey Bee)が言う「楠本先生」とは、2011年春に入学した大阪体育大学で指導を受けた楠本繁生監督のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 楠本監督は大体大監督に就任する前、全国大会出場経験のなかった京都の洛北高校を、全国高校総合体育大会(インターハイ)4連覇、2年連続の高校3冠などに導いたハンドボール界きっての名将だ。

「楠本先生に教えてもらったハンドボールはとてもシンプルで、簡単に言うと2対2の状況から、いかに数的優位をつくれるか。そしてプラスワンとなった時に、確率の高い方で勝負をしていきましょうということです。いくつか選択肢がある中で一番いい選択をするハンドボール。先生は私たちができるようになるまで、常に言い続けていました」

 攻守の切り替えが激しいハンドボールにおいて、瞬時の状況判断が必要になる。大体大では選手自身が考え、プレーすることを求めていた。

 

 大山は1年時から華々しく活躍というわけにはいかなかった。前年に負傷した膝に対する「不安はなかった」と言うが、西日本学生選手権大会(西日本インカレ)を制し、全日本学生選手権大会(全日本インカレ)で準優勝を収めていた強豪で易々とレギュラーの座を掴めるほど、甘くはなかった。

「レベルの差を感じました。高松商業に入ったばかりの頃と同じで、点差が開いた時や残り時間が少なくなった時に出る程度でしたね」

 

 同期のピヴォット(PV)角南果帆(現・ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング)は主力として試合に出ていたものの、焦りはなかったという。「“すごいな”と思いましたが、私は、とにかくついていくのに必死でした」。大山が入学した最初の年、大体大は全日本インカレを制した。大体大にとっても、大山にとっても初の日本一。高松商時代の恩師・田中潤監督(現・高松中央)への恩返しを、すぐに果たしてみせたのだった。しかし、主力ではなかった大山に確かな手応えがなかった。「“日本一になるって、こういう感じなんだ”と思いました」。“次は自分が貢献し、日本一に”。それが翌年からのモチベーションに繋がったはずだ。

 

 2年時には左ウイング(LW)で起用されるようになり、レギュラーに定着した。中高で主なポジションだったエースポジションのレフトバック(LB)よりワイドに開き、「左サイド」とも呼ばれる。そして時にはPVも任されることもあった。PVは「ポスト」とも言い、攻撃時にゴールエリアのライン際で、主にゴールを背にしてプレーする。

「楠本先生がいろいろなポジションを経験させてくれたことで、私は各ポジションで生きる術を学びました。特にポストは他のポジションがゴールに向かっていくのに対し、ゴールに背を向けてプレーする。見える景色が全く違う。最初はどこにどう動いたらいいのか、わかりませんでした。先輩にも怒られながら、見様見真似でしたね。ポストを経験したことで、ポスト側がほしいパスのタイミングや求められる動きなどがわかるようになりました」

 

 複数のポジションを経験させた楠本監督の狙いはこうだ。

「私は今でも選手には最低2つのポジションをできるようになってほしいと伝えています。違うポジションを経験することで見方が変わるし、視野も広がる。そのポジションで感じることが上達に繋がるからです。ゴールキーパー(GK)以外はいろいろなポジションを経験させたい。卒業後、実業団に入った時に使い勝手が良くなるし、試合に出られるチャンスも広がりますからね」

 

 センターでの覚醒

 

 大山に関しては、ユーティリティーな役割を求めるだけでなく、将来への布石でもあった。

「大山は下級生の頃からセンターをメインで使いたかったが、試合経験を積ませるために左サイドで起用しました。それにポストの動きも勉強してほしかった。彼女は感性が豊かなので、バックプレーヤーの目線だけでなく、ポスト側の視点も持てるようになると思っていました。それが彼女を成長させる上で大事なポイントだと考えていました」

 現在の大山の特長であるオールラウンドな能力は、大体大で培われていったのだ。

 

 3年時、大山の主戦場はCBとなった。「ゲームを自分がコントロールする」ポジションでのプレーは、まさしく“水を得た魚”のようだった。当時の様子を「センターをし始めてからグンと伸びた」と振り返るのは、高校時代の恩師・田中監督だ。

「大阪体育大には合宿でよく行っていましたし、インカレではレフェリーを担当することもありました。大山を見て“センターの方が良さが出るな”と改めて感じましたね。彼女の長所とポジションがマッチし、さらに成長していった気がします」

 3年時の全日本インカレで、大山は大会優秀選手に選ばれるなど、大体大の2年ぶりの優勝に貢献した。

 

 キャプテンを任された4年時、大山は就職活動をし、香川県のある企業に内定していた。なぜなら卒業後はハンドボールを辞める気でいたからだ。楠本監督はあえて引き止めなかったという。

「内定をいただいたのも早い時期でしたし、“この先変わることもあり得るな”と思っていました」

 楠本監督の見立て通り、大山が“引退”を翻意したのは、6月のことだ。日本、韓国、中国、チャイニーズ・タイペイ、香港の5カ国・地域で争われる第2回U-22東アジア選手権に日本代表として出場した。大山は全4試合でチーム最多タイの23得点を挙げ、日本の準優勝に貢献したのだ。“自分はもっとできるんじゃないか”。この時、プレーヤーとして上を目指したい欲が芽生えたのだった。

 

 北國銀行からの誘いの声も、ちょうどその頃に届いたことも幸いした。10年に日本リーグを初優勝し、今に繋がる黄金時代を築こうとしていた。「やるなら強いチーム」と大山の希望にもマッチしていた。高松商時代から大山の存在を知っていた北國銀行の荷川取義浩監督は、彼女を高く評価していた。

「彼女はハンドボールを続けるべきだと思っていました。高校生の時から見ていましたが、ハンドボールIQが高かった。高校の時から抜けている印象がありましたが、大学に行ってさらに磨かれた」

 

 卒業もハンドボールを続ける決意をした大山は、最後の全日本インカレで連覇達成に導いた。楠本監督によると、対学生には負け知らずのシーズンだったという。「“勝ちたい”という強い信念があった大山に任せていました。毎日の練習でチーム全体が頑張れるような雰囲気づくりをしてくれた。その意識の高さは下級生にも引き継がれている」とキャプテンとしてチームを牽引した教え子を称えた。

 

 15年1月から内定選手として北國銀行に加わり、14年度の日本リーグには2試合出場した。「やるなら強いチーム」と選んだ北國銀行だったが、大体大入学当初と同様、レベルの差を痛感した。大体大でキャプテンを務めていたとはいえ、14年度に日本リーグ、全日本社会人選手権大会、国民体育大会で3冠を達成したチームである。本人によれば、特にフィジカルレベルの差は顕著に感じたという。

 

 それでも15年度は日本リーグのレギュラーシーズンで全12試合に出場した。チームは2年連続3冠。大山は16年7月、第21回ヒロシマ国際大会の日本代表に選出された。

「2年目ぐらいから代表に呼ばれ、自分の意識も変わってきました。そこで“自分がどう生きるのか”を考えた。もちろんセンターで出たい気持ちはありましたが、センター以外のポジションで使われることが多かった。それならば“オール5”は無理でも“オール4”の選手になろうと考えたんです」

 

 ズバ抜けたスピードがあるわけではない。圧倒的なパワーを持つわけでもない。スペシャリストではなくオールラウンダーこそが彼女が生きる道だった――。

 

(最終回につづく)

 

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大山真奈(おおやま・まな)プロフィール>

1992年12月7日、香川県高松市生まれ。香川一中で本格的にハンドボールを始める。3年時に全国大会出場。高松商業では全国高校総合体育大会(インターハイ)をはじめ数々の全国大会に出場した。大阪体育大時代は3度の日本一を経験。15年、北國銀行に入団。オールラウンドな能力を買われ、早くから出場機会を掴み、日本リーグなど数々のタイトル獲得に貢献した。16年に日本代表デビュー。世界選手権は17年、19年と2大会に出場した。19年度の日本リーグベストセブンを受賞。北國銀行では今シーズンよりキャプテンを務める。ポジションは主にセンターバック。右利き。身長164cm。

 

(文・競技写真/杉浦泰介)

 


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