プロ野球が2リーグとなり、セントラルリーグへの加盟が決まりながらも、新球団のカープは選手集めに苦労していた。それは資金難によるところが大きいのは、前回までで述べてきた。この時、球団に唯一あったものは、戦前から中等野球、職業野球でその名を広めた初代監督・石本秀一の人脈であった。

 

 戦前、広島商業を4度の全国優勝に導き、さらに職業野球においては、大阪タイガースで連覇をやってのけた名将である。その間、率いた選手は100名どころの話ではない。球界を牽引する大スターも広島出身者が多かった。石本が声をかければ、選手が集まると、地元広島では衆目の一致するところで、ことは簡単に運ぶと思われた。

 

<「大スターの中に広島出身者はずらりいた。石本派と呼ばれた子飼いも多かった」>(『カープ30年』)

 

 しかし、選手集めに全国行脚をした石本であったが、プロ野球は一にも、二にも金がものをいう世界であり、思うように進まなかった。球団の設立資金は自治体出資でもって2500万円が掲げられたが、実際に石本に託されたのは800万円とも、600万円ともいわれている。それらも一度にあったわけではなかった。復興期の広島において、なけなしのお金が少しずつ集められて、選手集めを担ったとされる。

 

 「名前だけ貸してくれんか」

 こうした中で、連盟に提出する選手名簿には50名が必要であり、これをなんとかしようと石本は苦闘した。カープが一次発表した選手は、昭和24年12月29日の時点で23名で、まだ半分にも及ばなかった。

 

 ここで石本は苦肉の策に打って出た。

 筆者は、元カープ球団職員の渡部英之にこんなことを幾度となく聞いた。彼は昭和27年から昭和59年まで球団職員(退社時、総務部次長)として奔走し、カープこそ人生という人物である。当時の選手には契約金が払われないケースも当たり前で、名簿に名前だけを連ねた選手もいたというのだ。

 

「もちろん契約金のない人もいます。さらに石本監督が広商の監督時代の教え子に、『こんな~すまんがの~、名前だけでも貸してくれんかの~』『広島に来ることはない、新聞社が訪ねてきたら、ええ、広島と交渉中ですと言うてもらたらええ』といった者も合わせて、セリーグによくやく50名の名簿を提出して、カープというのが承認された訳です」

 

 時代を感じるウソのようなことが本当にあった。今もって、口伝として残っている。この話を当時の新聞記事からあたるとする。入団すると報道されながらも、実際に入団に至らなかった人物を探してみると、おおよそ7名の名前が浮かび上がる。

 

 高橋保、薄木元亮、保田直次郎、山縣将恭、久保木清、山崎克巳、林文造という名前がみてとれる。これらうち4名が広商出身者であり、中には、後に他球団に入った選手もいるにはいたが、カープでは名前のみの登録で終わった。

 

 この中でも、際立った選手としては保田直次郎があげられる。彼はまさに石本の教え子であり、広島商業で甲子園優勝3回(昭和4年夏、昭和5年夏、昭和6年春)を果たし、南海を11回の優勝に導き名将といわれた鶴岡一人と、広商時代は二遊間コンビを組んでいた。さらに保田はカープの考古学第3回に記したオール広島のメンバーとして、戦後すぐの広島で進駐軍と試合をしたメンバー。加えて広島商業のOBによる広商野球クラブの会長を務めるなど、後々まで広島の野球界を率いた。カープへの入団が発表だけはなされたことを、ご子息である保田昌志氏に聞いた。

 

「直接本人から聞いたことのある話としては、プロとは一切のエラーなどが許されないという思いがあったと聞いています」

 

 エラーが許されないほどの高いレベルのプレーが求められるのがプロ野球。これでは難しいという思いから諦めた。これは正統な理由であろう。加えて、すでに事業経営に精を出していたこともあったことが付け加えられた。また文献にはこう記されている。

 

<堅実な攻守に定評があり、石本監督の広島商業時代の教え子の一人であったが、すでに三十を越していたので、プロ入りには踏み切らなかった>(『広島カープ十年史』)

 

 年齢的な部分もあったというが、大きな賭けに出なかったのは、いかにも堅実な人生を送った保田直次郎らしい。

 

 選手入団でファン拡大

 カープの選手集めには、逸話がつきないが、昭和26年シーズン途中にカープに入団した渡辺信義は、草創期のカープの境遇と窮状を物語る選手である。カープの選手は、単に野球が上手く、技術的に長けているというだけではないことは、以前も述べたが、まさによく当てはまる人物が、この渡辺信義であろう。

 

 彼は、県庁の軟式野球チームに所属する剛球投手であった。県庁マンであったのだが、カープに入団させたのだ。昭和27年にはエース長谷川良平がシーズン当初から出遅れる中、石本監督の指導によって急成長した人物。軟式野球にありがちな抑えがきかない球筋のうわずったボールが多かった渡辺をアンダースローに改造し、硬式では技巧派に転身させ、一カ月半で6勝をあげるという、ごくごく短期間ながら、エースとまで呼ばれるまで育て上げた。

 

 この渡辺の出身地は県北の三良坂町(現三次市)で、当時のカープは彼の入団によって県北にもファンを広げたいという思いがあったという。

 

 昭和25年入団の捕手・長谷部稔(OB会終身名誉会長)はいう。

 

「県北にも後援会をつくろういうので、声をかけて、入団されたと聞きました」と振り返る。県北の選手を入団させることで、県北のファンが増えて、ファンとあらば、こぞって後援会に入会する。こうなると、後援会費をもらうことができるし、カープも経営的に潤いが生まれるという訳だ。

 

 こうした中で、カープに入団した渡辺の登板を心待ちにしていた少年がいた。彼の名前は安田誠一である。安田も県北、三良坂町出身で、わが故郷の英雄を応援したいと広島総合グランドに足しげく通った。球場から出るところを待ち構えて、「お~い、ノブヨシさ~ん」と、あたかも自分だけの選手かのように、声をかけるのが安田にとってたまらない瞬間だった。

 

 この安田は昭和41年、地元RCC中国放送に入社した。昭和58年まで、スポーツ中継を担当した。アナウンサーとして、ちょうど力をつけてきたときが昭和50年だった。あの10月15日のカープ初優勝の瞬間を、後楽園球場のスタンドからファンの様子を中継した。両国パールホテルでのビールかけの瞬間には、会場内でビールまみれになりながら、インタビューを行ったひとりだ。

 

 渡辺の入団の波及効果は大きかったろう。郷土のファンを増やし、さらに、そのファンの中から、カープ戦の実況を担うアナウンサーが生まれたのだ。カープのファン拡大に大きく貢献したことは間違いない。野球の技術だけでなく、選手の生まれ故郷などバックボーンも重視した--。そうしたカープの選手獲得戦略は、ファン獲得などの副次的効果を狙ったもので、見事に結果を残したのだった。

 

 ここまでカープ選手集めにまつわるエピソードを連載してきたが、次回からはいよいよカープ初年度の戦いに進みたい。カープ誕生当時、日本はGHQ占領下におかれていた。国際社会に復帰しておらず、日本は日本でありながら、独立国家ではない時代だった。当時の世界情勢はどのようなものであったのか。まずはそこにスポットを当ててみたい。乞うご期待。

 

【参考文献】 『カープ30年』(富沢佐一)中国新聞社、『カープ十年史』中国新聞連載、『広島カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんよ~』トーク出版、『日本野球を創った男--石本秀一伝』講談社
【講演記録】 「カープ語りべ講座」2008年1月13日(二葉公民館)、「カープOB昔話」2007年11月29日(二葉公民館)

 

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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