広島カープという一地方に誕生したプロ野球チームは、広島が原爆によって廃墟となったことから、その復興のためにつくられたことは、この連載で幾度が述べてきた。今回からはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策が進む日本において、カープ誕生に向けた広島がどのような情勢下に置かれていたのかについて触れてみたい。


 原爆を投下したアメリカとの関わりは、カープの創世記を語る上で避けては通れないものと考える。カープが誕生するきっかけは、人類史上初めて実戦に使われた原爆が起点になったというのが史実であり、さらに、今後は、その背景にあったものの解明が進むと筆者は考えている。

 

 廃墟と化した広島の町を復興させようとした中で、県民や市民の精神的な支柱となったのが市民球団であるカープであった。復興を願い、汗水を流して働く中で、カープの勝利こそが人々の大きな喜びであり、生き甲斐にもなった。


 話はカープが誕生する4年前、原爆が投下された直後に遡る。ある1人の男が、広島にやってきた。彼の名はマルセル・ジュノーといった。

 

 被爆の惨状を調査

(写真:"ヒロシマの恩人"マルセル・ジュノー博士©ICRC)

 ジュノーはスイス生まれの外科医で、赤十字国際委員会の派遣員として世界各国の戦地に赴いた。第二次エチオピア戦争(1936~39年)やスペイン内戦(1935~36年)で負傷者の手当てなどの人道支援を行い、日本がアジアに進出する中で、中国での負傷兵の救済にもあたった。戦火があるところに博士の姿があったのだ。

 

 日本にやってきたのは昭和20年8月のこと。B29による都市爆撃にさらされ、負傷した人々を救いたいという一心であったことは彼の経歴からして想像に難くない。肩書きは赤十字国際委員会駐日代表である。

 

 中国ハルビンを発ち、東京に向かうジュノー一行のことは、朝日新聞が「赤十字ジュノー博士日本へ」の見出しでこう伝えた。

 

<博士らは、六日新京出発、日本に向ふ予定>(朝日新聞東京朝刊・二面・昭和20年8月4日)

 

 そして8月9日、東京に着任した。ほどなくして終戦を迎えたが、この時期、アメリカにとって原爆投下はアンタッチャブルな事象であった。原爆による被害が想像を絶するものであり、世界からの批判を恐れ、原爆にまつわる報道をことごとく排除していた。ジュノーの著書にも、当時、「ヒロシマ」を語ることはご法度とされ、取材をした記者が処分されたことなどが記されている。

 

<アメリカのジャーナリストが一人、飛行機で広島に近づき取材に成功したのを私は知っていたが、彼の報告は直ちに発禁処分を受けた>(「ドクター・ジュノーの戦い」マルセル・ジュノー・勁草書房)

 

 当時、被爆後の広島の実態はアメリカが機密としてひたすら隠そうと動いており、世界の批判にさらされ、求心力が低下することを避けるために報道規制を敷いたのだった。だが、こうした暗幕で覆われた状況の中、動き出したのがジュノーであった。

 

(写真:赤十字の航空機の前に立つジュノー博士。エチオピア戦争1935-1936にて。©ICRC)

 昭和20年9月1日、ジュノーは外務省経由で広島の惨状を記録した写真を手に入れた。さらにさまざま風評も聞き、原爆の被害状況について情報を集めた。その驚きたるや……。著書にこう記している。

 

<穏やかな空から突如として、目もくらむ閃光が放たれ(中略)熱風と烈火の台風ともいうべきで、突如として、地表を一掃したかと思うと後に火の海を残した(中略)生存者の唇から、まだ死の絶叫が聞こえてくる>(同前)

 

 さらに、ジュノーは広島の惨状を知らせる電報の写しを、さまざまなルートから手に入れた。内容を原文のまま記す。

 

<恐るべき惨状……町の九〇%が壊滅……全病院は倒壊または大損害を被る。仮設二病院視察、惨状は筆舌に尽くし難し……爆弾の威力は凄絶不可思議也……回復確かに見える多数の犠牲者は白血球の減少及び他の内部損傷により突如致命的な再発を来たし事実上相当数が死亡す>(同前)

 

 ジュノーはこの電文と写真を、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに見せるべく、司令部のあった横浜商工会議所に出向いた。何とか救護活動と支援を、という必死の思いであった。

 

 司令部に到着したジュノーは4人の将官らとやりとりをし、1人の将官がジュノーの勢いに負け、「これをお借りします。マッカーサー元帥に見せたいのです」と口にした。当時、アメリカの行為には正当性を持たせなければならず、いくら赤十字からの使者であっても、直談判は避け、ワンクッションを置いて対応したのであろう。

 

 15トンの医薬品

 9月7日、司令部から呼び出されたジュノーへの返事はこうであった。
「米軍は直接救援活動を組織することはできません。」

 

 ただし、彼の信念に基づいた行動は分厚い壁を突き破った。
「しかし、マッカーサー元帥は、15トンの医薬品と医療器材をあなたに提供することに同意しました」

 

 ジュノーの思いがマッカーサーを動かした。医療器材をアメリカから日本へ送り、ジュノーに託すというのである。アメリカの心の底にあった、眠らせておきたいと思っていた、罪。それを償うことへの行動を起こさせたのである。

 

(写真:広島に届いた医薬品などの救援物資。<写真寄贈・松永勝、写真所蔵者・広島平和記念資料館>。いかなる理由においても当画像の無断コピーを禁じます)

 大いなる成果を手にしたジュノーは広島へと赴き、直接、治療ができるように動き出した。アメリカから岩国空港に持ち込まれた医薬品を広島まで持ち込むべく手はずを整え、さらに自身も広島の町を見て回った。

 

 救護所や、日赤病院には凄惨な被害を負ったおびただしい数の人々が収容されていた。その時のことを中国新聞記者である大佐古一郎氏は自著でこう述べている。

 

<どの救護所も、あてのない治療を待っている患者ばかりだった。眼と口だけを残して頭部から胸、手、足などを包帯で真っ白に巻いた体を大八車で運ばれてきたり(中略)炭化した皮膚を垂らしたままの中学生、顔面や胸部に血斑を出して小さな息であえいでいる婦人もいた>(「ドクター・ジュノー武器なき勇者」大佐古一郎・新潮社)

 

 なんと酷いことか--。もともと外科医で鳴らし、エチオピア戦線から、中国戦線にも出向いたジュノーはさっそく診療に取り掛かった。

 

<ジュノー博士は、患者の眼球や口腔をあらため、ピンセットを手にして傷口やケロイドを入念に診たうえ、被爆した地点を本人に尋ねた。そして屋内で被爆し、全身にガラスの破片が突きささっているため隅の壁にすがったままのの婦人を発見すると、傍らに近づいていき、やさしく声をかけた>(同前)

 

 体の傷だけでなく、心にも深い傷を負った人にも、真心を込めた言葉で接したという。
<「もう少し頑張るんですよ。二、三日中にはいい薬がきますからね」>(同前)

 

 そして待望のアメリカからの医薬品が届けられた(下写真)。ペニシリン、乾燥血漿、ブドウ糖、リンゲル、サルファ剤、DDT、手術用器具、アルコールやクレゾールなどの消毒液、包帯材料、救急薬品、栄養剤など。貨物約15トン分であり、これらでもってジュノー博士の下、医師団が治療にあたったのである。

 

 復興の中心地で「オー、カープ!」

 治療の合間に広島の町を精力的に見て回ったジュノーは、とりわけ爆心地からどれぐらいの距離であるか、ということに重点を置いて、被害状況を尋ねていた。きっかけは広島に入った後に、原爆で焼けただれた一般市民の写真を入手したことだった。あまりの負傷の酷さに心を痛め、治療行為のみならず、あらゆる調査活動へと動きを早めたのだ。

 

 そんな中、こんなエピソードがあった。被爆者の写真を手に、陸軍中尉である軍医に「これらの写真を赤十字でお借りしたいのですが」とジュノー。すると「これは軍事機密に属するものですから、外に出すことはできません」と軍医。これをジュノーが一喝した。

<「何が軍事機密ですか、あなたは、まだ戦争をしているつもりですか」>(同前)

 

 ジュノーは持論をぶちまけた。
<「不幸な戦争がもたらしたこの悲惨な証拠をジュネーブに持ち帰り、全世界の人々に見せることが戦争の再発を防ぐことになると思いませんか」>(同前)

 

 広島の被害を全世界に知らせることの意義の大きさを唱えたジュノーの手に写真が渡り、のちの原爆の実態研究に役立てられたという。

 

 こうした広島における支援活動の中で、大変印象深いエピソードがあったので記すとしよう。

 

 広島のあらゆることに興味を示したジュノーは、交通手段は自動車のみならず路面電車にも乗った。常にポケットに手帳を忍ばせており、広島の町や、景色などに感じたことは何でも尋ねて、メモしたという。

 

 広島市の西側に現在でもある西広島駅周辺で、己斐(こい)地区にさしかかった時のことだ。ジュノーが興味を持ったのは、この地名だったという。

 

「なぜ、己斐の町というのか?」

 

 この質問に対して、己斐の町の由来は、もともとは鯉村と呼ばれており、鯉に由来することを説明するが、肝心の鯉にあたる英単語が出てこないため、その場で魚のイラストを書いて説明したという。ただの魚では分からないとばかり、<それにヒゲを二本はやした>(同前)。次の瞬間、ジュノー博士は「オー。カープ!」と言ったという。

 

 ジュノーが、カープと叫んだ話は同行したとされる松永勝医師、大佐古一郎記者とも互いの文献に書き記している。

 

 被爆者の治療に自らあたり、マッカーサーをも動かし、アメリカから15トンの医薬品を届けさせたジュノーにより、負傷者の多くの命が救われ、広島復興の原動力を育んだとされる。

 

 この4年後、広島の町に新球団を誕生させる動きが活発になるが、もちろんそのチーム名が「カープ」となることを博士は知らない。しかし、「オー、カープ!」の力強い声を、被爆まもない広島の地でジュノーが上げたという事実に触れられただけでも、カープ誕生がいかにドラマチックであったかと感じざるを得ない。

 

 次回のカープの考古学でも、カープ誕生の後に好影響をもたらしたであろう、アメリカからやってくる1人の男を紹介しよう。カープ選手にも大きな運命をもたらした男の話である。
(つづく)

 

【参考文献】 「朝日新聞(東京朝刊)二面」(昭和20年8月4日)、「ドクター・ジュノーの戦い」マルセル・ジュノー(勁草書房)、「ドクター・ジュノー武器なき勇者」大佐古一郎(新潮社)、「原爆秘話 広島の恩人ドクター・ジュノー」松永勝・婦人公論・昭和53年8月号(中央公論社)、「広島県医師会速報(903号~931号)」(昭和52年8月5日~昭和53年5月15日)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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