広島カープの誕生が原爆からの復興に励む県民や市民の精神的な支えとなったことは、これまでに幾度も述べてきた。当時の広島は食糧事情は最悪で、闇市での利権争いや血なまぐさい事件なども続いていた。当然ながら住む場所にも不自由し、被爆直後は生きるのもやっとという状況で、バラックを建て、懸命に生き抜いていく毎日だった。被爆者への特別な支援さえなかった。


<戦時災害保護法が打ち切られた後、被爆者への特別な援護はなく、生活保護法など一般的な福祉制度しか頼るものがなかった。焼け残った資材を集めて造ったバラックに住み、物資不足に悩みながら、その生活は困窮を極めた>(「海外からの支援」広島平和記念資料館平成19年度第一回企画展資料)

 

 人々は焼け残った建物の一部を奪い合うかのように持ってきては住まいの一部に継ぎ足しながら、寝床を確保していた。

 

 こうした辛い日々の中で、カープ誕生が最初に伝えられたのは、昭和24年9月のことである。中国新聞見出しに「チーム名は鯉」と掲載され、県民市民を喜ばせた。原爆投下から、4年1カ月が過ぎていた。

 

 プロ野球のチームができることは、戦前から野球王国といわれ、多くのプロ選手を輩出してきた広島にとって、信じられないほどの喜びであったろう。

 

 今でも「なにはなくとも、広島カープ」といえるほどの思いで応援し続ける熱狂的なファンが多いのは、戦後復興期の真っただ中、娯楽がない時代に、カープが誕生し、おらが町のチームとして応援したことに起因しているのは言うまでもない。

 

 とにかく町の話題はカープ一色になった。

 

「あの、白石がカープにくるじゃげなでー」と、誇らしく語りあい、町の話題を独占していた頃のことだ。

 

 平和の使者、来たる

(写真:今回の主役であるフロイド・シュモー。1895年アメリカ・シアトルに生まれた。<写真提供/シュモーに学ぶ会。以下同>)

 この発表の1カ月前のこと。昭和24年夏に、ある1人の男が、広島の町にやってきた。男の名前は、フロイド・シュモーと言った。

 

 シュモーは、アメリカ西海岸の北端に位置する町シアトルの出身で、ワシントン大学で森林学を専門として教鞭をとっていた。過去には第一次世界大戦中、兵役ではなく、赤十字へ参加し、救急や救命の任務にあたったとされ、まさに平和主義者であった。

 

 シアトルをはじめ、アメリカ西海岸には、日本の国策によって、明治時代からの移民が多く住んだとされる。シアトル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、タコマ、メリスビルなどへ、多くの日本人が開拓団として移住した。もともと勤勉な日本人でゆえに、広大な土地を与えられた中で、まじめに働き、財を築いて、多くの成功者が出ていた。こうなると、アメリカ人との国際結婚を求められもし、一方では、異国から来た成功者として、ねたむ人も少なからずいたとされる。いずれにせよこうした西海岸沿いの都市を中心に日本とアメリカとの交流が盛んだった。

 

 こうした中で日米間を揺るがす出来事が起きた。昭和16年12月8日未明、日本による真珠湾の奇襲攻撃がなされ、西海岸に住む日本人や彼らの二世は収容所に囚われの身となり、財産まで没収された。

 

 こうしたことに胸を痛め、日本人や日系二世を救うべく運動を起こしたのがシュモーであった。長引く戦火の中、このシュモーをいきりたたせる大事件が発生した。昭和20年8月6日、広島への原爆投下である。

 

 シュモーの怒りが書籍に記されている。
<あの柔和な顔が悲しそうな表情に変わった。「恥ずかしい」と繰り返し、その場で大統領に抗議電報を打ったのです。怒りようはそばに寄れないほどでした>(『ヒロシマの家―フロイド・シュモーと仲間たち=』シュモーに学ぶ会)

 

 同じ人類がする行動ではないとシュモー自身が恥じ、トルーマン大統領に直接、行動を起こしたのであった。また、シュモーには愛娘エスターの存在もあった。エスターはワシントン大学の学生でキリスト教信者であったゴードン・ヒラバヤシと結婚していた。ヒラバヤシは在学中、日系人に対する不当な処遇を違憲として、裁判を起こし、これにエスターが協力した縁からの結婚だったのだ。

 

 いずれにせよ、アメリカ人として原爆はおろか、戦争は許されないことだという思いがシュモーにあった。
<「すべてのアメリカ人がそのような行為を認めている訳ではないと示すためには、何か言わなければ、何かしなければと思った」>(『エスニック・アメリカを問う』第七章フロイド・シュモーと「広島の家」長谷川寿美)

 

 シュモーの怒りは収まらず、大学を辞め、広島で家を無くした人々を救いたいと運動を始めた。広島の人々のために家を建てたい。この実直な思いから募金活動を開始した。当時、アメリカ世論は原爆を正当化する声も当然ながらあった。要は、原爆によって戦争を終結させることができ、平和が訪れたという考えである。

 

 アメリカは死の塹壕と化した広島の話が広まってはいけないと、世界の世論からの攻撃を避けるために、厳密なプレスコードを敷いて、言論統制を図った。しかしながら、米国内でも人類破壊兵器による広島の甚大な被害が伝えられ、改めてその悲劇を考えるようにもなったのだ。

 

 住宅建築の提案

 シュモーの行動は素早く、そして力強かった。広島市長に宛てて手紙を書き、実にまっすぐな思いと、建築にかかわる費用、人材の確保など詳細な計画を提示した。当時市長であった浜井信三もそれに応えた。

 

<「市でできることは、いかようにもお手伝いするから、ぜひ、その計画は実現していただきたい」>(『日本印象記』フロイド・シュモー 廣島ピース・センター)

 

 次第に原爆の被害が伝えられると、賛同者も現れ、アメリカ国内から約4000ドルの募金が寄せられ、建築資金として準備された。占領下の日本へ、アメリカ人の渡航が許されない中でも、シュモーの信念にかられた行動によって、さまざまな団体が協力し、ついに日本への渡航が実現した。

 

 日本に到着した後、シュモーの人柄を示すエピソードがある。日本国内の移動は鉄道を使ったが、当時の民間人は三等車に乗車するのが当然とされていた中で、シュモー一行もそれに倣った。だがアメリカ人ということで車掌は気を遣ったのであろう、二等車に乗車するように促したのである。

 

 シュモーは白人であることや、戦勝国民であることを理由に、特別扱いをされることを特に嫌った。シュモーの自著にはこうある。

 

<車掌があらわれて二等車の席を私たちに提供するといってくれたがお断りした。私たちはただ三等列車の座席料金を支払ったに過ぎなかったし、また、自分達の西洋顔を利かせようという考えも気にくわなかったから>(『日本印象記』フロイド・シュモー 廣島ピース・センター)

 

 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の支配下におかれた日本で、戦勝国の人間として、大きな顔をする外国人も多かった中で、シュモーはつつましやかにふるまい、特別扱いを快しとしなかったのだ。

 

 こうしてシュモーは広島に到着した。広島ではボランテイアとともに、日夜、住宅建築に励んだ。広島市が準備した土地は、皆実町、江波地区、牛田地区の3カ所で、そこに合計21戸(うち集会所1)の住宅を建築した。

 

(写真:シュモーの写した皆実に完成した住宅全景。多くのボランティアとともにシュモー自身も大工作業を行ったという)

 シュモーには洋風化された家を建てたいという思いがあったが、アメリカとの住宅事情が違う中で、広島市の復興期に建てられのは二軒長屋で、和室二間続きで風呂と便所が付いた和風の住居であった。

 

 これら21戸の中で、最初に完成した記念すべき二軒長屋に、広島市は「皆実町シュモーハウス」と命名し、シュモーの名を残そうとした。しかし、ここでもシュモーは持論をかかげ、この名称を断固拒否したのである。

 

 要は自分だけが建てたのではない。多くのアメリカの篤志家からの寄付を受けていたことに加え、さらに現地広島をはじめ、東京からなど多くのボランティアの手伝いがあって実現したものである。ボランティアは仕事の量を越えて集まることもあったほどだった。

「仕事や道具よりもボランティアの数の方が多い」(『エスニック・アメリカを問う』第七章フロイド・シュモーと「広島の家」長谷川寿美)

 

 こうした多くの方の思いが集結したものであるが故に、自分の名前だけを奉ることを快しとしなかったのである。

 

<広島市が名付けた「皆実町シュモーハウス」という名前は、シュモーの提案で『平和の家』に変更された>(『エスニック・アメリカを問う』第七章フロイド・シュモーと「広島の家」長谷川寿美)

 

 結局、皆実平和住宅という名前で呼ばれることになり、その住宅の前には石灯籠が置かれ、「祈平和」の文字が刻まれた。

 

 この皆実平和住宅の入居者募集には3800世帯から申込みがあったというから、原爆直後の広島の住宅事情がいかに大変なものであったかが感じられる。入居者の決定は広島市の建築課長の提案で、厚生課の係員が志願者の家を訪問し、それから決定がなされるという方法をとった。

 

 平和住宅の庭先で素振り

(写真:完成した平和住宅の前でシュモーと浜井信三広島市長。昭和24年10月1日撮影)

 この記念すべき"平和の家"に晴れて入居することになった最初の4家族の中に、運命とも言えようか、あまりにも驚きのストーリーがあった。のちに広島商業から法政大学に進みカープに入団する山本一義少年の家族が入居したのだ。

 

 山本はカープでクリーンアップを打った郷土生まれの生え抜き選手で、ミスターカープと呼ばれ、現役15年間で171本のホームランを放ち、昭和41年から2年連続で3割を超え、カープの主砲であった。

 

 彼の実家は爆心地から西に約1.7キロの天満町にあった。戦時中は広島市から北部の三入地区に疎開し、原爆から逃れることができたが、実家は原爆後の火災で焼かれ、失われていたのだ。

 

 さらに山本の父・武夫は爆心地から約3キロ北にある三篠地区で被爆し、倒壊した建物が体の上にのしかかり、大ケガを負った。山本の身内の方の証言を以下に記そう。

 

「(武夫は)爆風で倒れた建物により、二の腕に五寸釘が突き刺さったそうで、それを、数時間もかけて、必死に抜いて、そして、命からがら建物から這い出して、疎開先の三入地区まで、歩いて帰ったと聞いています。帰ったときは妻の安子が『山本武夫ですか?』と尋ねたと聞いています。それには『そうだ』と答えたらしく、それほど負傷していたそうなんです」

 

 幸い武夫は一命をとりとめ、原爆による不遇にあった中で、一義を含めた5人の兄弟ら家族全員で、皆実平和住宅に入居することになった。山本はここに住みながら、皆実小学校に通い、翠町中学校へ進んだ。周辺には野原もあり、野球をするには事欠かない環境であった。さらに広島商業に進み、甲子園には3年の春と夏、2度の出場を果たした。シュモーが提供したまさに平和な環境がのちのカープの主砲を育んだのである。

 

(写真:シュモーは滞在中、自身のカメラにヒロシマの日常を数多く記録した。写真は平和住宅に暮らす子供たち)

 この家で、山本が毎日欠かさず行っていたことがある。
<「家では、毎朝、庭でバットを振りました」>(「中国新聞」連載『生きて』元プロ野球監督 山本一義さん③冨沢佐一)

 

 少年時代の山本は祈平和と書かれた石灯籠の前で、必死にバットを振っていたのであろう。この連載記事から思いを馳せると、原爆を投下したアメリカからやってきたシュモーが、野球のできる平和な暮らしを山本一義少年に与え、そして復興を担った球団カープに入団。彼の活躍は原爆で犠牲になった人々の心を慰め、明日への希望を与えたと考えられる。そうであればシュモーは当初の目的を果たし、さらに、多くのカープファンにも夢や希望を与えたことになるだろう。

 

(写真:1982年、跡地一角に「皆実平和住宅集会所」が完成。84年夏、そこを訪ね歓待を受けるシュモー)

 アメリカからの平和の使者となったシュモーは、この後、同じく原爆の被害に遭った長崎にも住宅を建て、家を失った人々に生きるための希望を与えた。ノーベル平和賞の受賞候補者に計3度ノミネートされたのも実にうなずける話である。

 

 さて、これまでカープ球団の誕生時における、カープの存在そのものが、単なるプロ野球チームではないということをお伝えしてきた。カープ誕生の背景にある世界情勢を探るシリーズも次回の3回目でクライマックスを迎える。今回は住宅が贈られた話であったが、次回は、アメリカから広島に届けられた、平和を祈念したあるモノについて紹介しよう。乞うご期待。(つづく)

 

【参考文献】  『日本印象記』フロイド・シュモー、『エスニック・アメリカを問う』第七章フロイド・シュモーと「広島の家」長谷川寿美、『ヒロシマの家―フロイド・シュモーと仲間たち=』シュモーに学ぶ会、「海外からの支援」広島平和記念資料館平成19年度第一回企画展資料、「中国新聞」連載『生きて』元プロ野球監督 山本一義さん③ 冨沢佐一

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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