高校サッカー選手権の開催がひとまず有力となった。胸をなで下ろした選手や関係者、家族の方も少なくないことだろう。

 

 およそコロナ禍が収まったとはいえない中、ゴーサインが出たのはなぜか。

 

 一足先に開催したJリーグで大規模クラスターが起きていない、というのは確かに大きいだろう。では、Jリーグに大規模クラスターが出たとすれば、高校サッカーは無条件で中止となるのか。そうはならない気がする。

 

 というのも――。

 

 この業界、スポーツを文化に、と口にする人は少なくない。わたし自身、スポーツ界のダメな事象を目にするたび「文化じゃないからなあ」と嘆息を漏らしたことは多々ある。

 

 ただ、カルチャーという英単語を「文化」と和訳したのは明治の文豪、坪内逍遥だそうだが、そのことで、日本の文化論はミスリードされてしまったのではないか、と最近になって思う。

 

 スポーツを文化に。ごもっとも。では、文化にするためにどうすべきなのか。そう問われて明確な答えを出せる人がどれだけいるだろう。少なくとも、わたしには無理だ。

 

 だが、カルチャーという英単語には「習慣」という意味もあったことを知ると、一気に視界は開ける。

 

 スポーツを文化にする方法はわからないが、習慣にする方法ならばいくつか考えられる。そして、逆説的に考えれば、習慣になっているスポーツほど、これまで漠然と使ってきた「文化」に近い位置にある。

 

 なぜ中止になった春のセンバツは交流試合という形で復活したのか。甲子園を目指す球児だけでなく、多くの日本人にとって、春の、そして夏の高校野球が習慣だからだった。習慣だったから、それが消えようとしたとき、多くの人が守ろうと立ち上がったのだった。

 

 プロ野球しかり。大相撲しかり。日本の文化とされるスポーツは、多くの人が視聴、または観戦の習慣を持っている。ことスポーツに関する限り、カルチャーとは、すなわち習慣のことである。

 

 高校総体には、それがなかった。

 

 最後の夏を目指す高校生たちの思いは、球児やサッカー少年となんら変わるところはなかった。ただ、毎年開催地が変わる総体は、選手にとっての目標ではあっても、多くの人にとっての習慣ではなかった。中止が決まったとき、選手や関係者以外で喪失感を覚えた人が圧倒的に少なかったことが、代替大会をという機運が高まらなかった最大の理由だとわたしは見る。

 

 スポーツを習慣にするためには、場所と時期を固定するのが一番いい。

 

 総体には「聖地」がない。逆に言えば、毎年高校生たちがやってくるのを楽しみにしてくれる町、競技を離れた選手が名前を聞いただけで郷愁をそそられる町が生まれれば、総体は野球やサッカーに負けない大会に化ける可能性がある。

 

 たとえば、大会が恒久的に東北で行われるようになったとしたら。地域には定期的な収入がもたらされ、参加した人たちは若き日の思い出として東北を刻む。復興のためをうたいながら、さして復興の役に立っているとは思えない東京五輪より、はるかに「文化的」な意義を持つとわたしは思う。

 

<この原稿は20年9月3日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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