カープの誕生する時代背景と世界とのつながりについて述べてきたこのシリーズも3回目の今回で締めくくりとなる。


 被爆直後の広島において医学博士のマルセル・ジュノーがアメリカを動かし、医薬品を被爆者のために届けた(カープの考古学第29回)。カープ誕生の年には、森林学者のフロイド・シュモーが、原爆で家を無くした家族らに、住居を建設し提供した(カープの考古学第30回)。

 

(写真:今回の主人公、バラの花”ヘレン・トラゥベル”。2020年撮影。提供:第37回全国都市緑化ひろしまフェア実行委員会事務局)

 原爆投下国であるアメリカからの支援はそれだけではなかった。昭和27年、数多くのバラの花が贈られたのだ。

 

 この年、カープは球団創設3年目のシーズンに入り、前年にはNHKの紅白歌合戦が始まり、プロレスラーの力道山もデビューした。戦争で打ちひしがれた国民にも娯楽を楽しむ余裕が生まれてきていた頃のことだ。

 

 昭和26年9月、日本はサンフランシスコ講和会議で平和条約に調印し、国際社会への復帰が認められ、独立国家としての第一歩を踏み出していた。いよいよ平和で個人の自由が認められるという時代がやってきた。娯楽や芸能を楽しみたいという思いが大きくなる土壌も整い、こうした人々の思いに呼応するかのように新球団カープは広島県民・市民らの絶対的ともいえる娯楽になっていた。

 

 今回紹介するのはこのカープ誕生後の間もない時期にあった、広島の人にもあまり知られていないエピソードである。

 

 NYの歌姫、来日

 昭和27年4月、ある1人の女性歌手が日本にやってきた。その名をヘレン・トロウベル(当時48歳)と言った。彼女はニューヨーク・メトロポリタン歌劇場を沸かせ、世界的に名を広めていたオペラ歌手である。午前と午後のリサイタルで1日8時間半も唄うこともあり、声量は豊かで、来日時は彼女の最盛期だったと言われている。彼女はバラの愛好家としても有名であり、アメリカの種苗会社はバラの特定種に「ヘレン・トラゥベル」と名付けたほどであった(*注記1)。

 

 このトロウベルが、東京、大阪、名古屋、広島など日本主要14都市を回りリサイタル(主催・朝日新聞社)を行った。

 

 彼女の来日は、ダグラス・マッカーサーから指揮を引き継いだ連合国軍最高司令官のマシュー・リッジウエイがアメリカに帰国しようかという時期と重なった。日本もいよいよ国家の意志で平和の歩みを進めるという時代のことであった。

 

 日本国の国体が変わるという転換期とあって、昭和天皇はこのことを重く受け止め、リッジウエイに7年間の支配下時代を重んじて、敬意を表したとされる。

 

<講話条約の発効にあたり天皇陛下は、廿六日午前十一時東京溜池の米軍大使館にリッジウエイ総司令官を訪問、七年にわたる占領間の総司令官ならびに連合国に感謝の意を表される。>(朝日新聞・昭和27年4月26日付)

 

 話をアメリカの歌姫に戻そう。トロウベルのリサイタル初日は4月24日、東京の帝劇にて開かれた。リッジウエイの帰国する4月27日の前後両日には、日比谷公会堂で自慢の声を披露している。アメリカ本場の歌手の熱唱がどれだけすごかったのか。当時の日本人は、あまりオペラに触れる機会がなかったこともあり、その声量の凄さに圧倒され、拍手をするのも忘れていたという。そのことからトロウベルは、不機嫌になったというエピソードが残されている。

 

<満場、感動に息をのんで、しばし拍手を忘れていたので、ややけげんな面持ちだった。>(朝日新聞・昭和27年4月26日付)

 

 拍手のなかった真相をあとで聞いて、本人も「それなら」と納得したというオチがついている。

 

 荒廃の地をバラで飾る

 歌姫は全国を回り、いよいよ広島公演が近づいてきた。全国14都市を回る中でトロウベルは広島を心待ちにしていたという。当日は広島駅頭で盛大な出迎えを受けた。

 

 出迎えたのは当時、"原爆市長"とも言われた浜井信三広島市長と、愛娘の浜井純子さん(当時11歳)であった。

 

(写真:広島駅でトロウベルを出迎えた浜井純子さん・左。提供:本人)

 感情をストレートに表すトロウベルを遠慮気味に出迎えた純子氏(右写真)。現在、横浜市に在住の彼女は当時をこう振り返った。

 

「トロウベルさんに花束を渡した後に、手を差し出されたのですが、どうしていいのか、分からなくて、通訳の方から、握手ですよと言われ、慌てて手を出したほどです」


 当時の新聞には、こんな記述があった。
<花束を持って迎えた浜井広島市長令嬢純子ちゃん(11)にも、"儀礼"のワクを越えて、ヒタイに何度もキッスをして相好をくずし>(朝日新聞・昭和27年5月15日付)

 

 70年近く経った今となって、記憶と記録の違いはあろうが、いずれにせよ、特別な歓待で出迎えられ、トロウベルが満面の笑みで感激を表現したことは間違いあるまい。

 

 広島でまずは厳島神社のある宮島へと向かった。そこでは梅林義一宮島町長の愛娘・君子さんが赤いカーネーションを渡すという演出もあった。5月11日の日曜日は母の日であり、この演出にトロウベルは<おお私の君子、私はたったいま、君子の養母になった。養母の私にカーネーションの贈りものとは大変親孝行>(朝日新聞・昭和27年5月15日付)と感激したという。

 

 翌5月12日、広島市でのリサイタルは東洋座を会場として行われた。前売り券の売れ行きも好調であった。

 

<期日切迫とともに飛ぶような売行きをみせている。さらに立席の前券を九日から、行うことになった(中略)>(朝日新聞・昭和27年5月9日付))

 

 予想を上回る売れ行きから急遽、立見席も追加されたということからもわかるように、歌姫を一目見たいという広島県民・市民の熱意ははちきれんばかりであったのだろう。

 

 68年ぶりに咲き誇る

 トロウベルの来日公演にかけた思いは、当時の記録にこう記されている。

 

<戦争で荒廃した日本の諸都市をバラの花で飾りたい。>(朝日新聞・昭和27年4月23日付)

 

 この思いから、広島ではトロウベルの手によって、原爆ドーム前にバラが植えられ、原爆に打ちひしがれた人々の心を和ませた。このバラは、植えられたのが広島県の公の土地とあって、すぐに移植され、広島バラ会のメンバーによって、大切に育てられた。

 

 同年秋には広島バラ会による展示会も開かれた。
<10月17日、広島市下中町アメリカ文化センターでフタを開けた。アメリカの歌の明星ヘレン・トロウベルから贈られた"トラゥベル・ローズ"が見事な開花を見せている。>(中国新聞・昭和27年10月19日付)

 

 さらにトロウベルは、広島で原爆によって両親を亡くしたという孤児らの話に心を痛め、また自身も子宝に恵まれなかった身とあって、精神養子の制度を浜井市長に申し出た。

 

 この精神養子は孤児を支えるために一定額の養育費(1年間に1人30ドル前後)を送金する他、文通を通して孤児と交流を図るというもの。トロウベルは<何人かの精神養子を持ちたいと広島市役所に伝えた(中略)>(朝日新聞・昭和27年5月16日付)

 

 トロウベルは縁が結ばれて4人の精神養子の親となった。全国14都市でのリサイタルの予定が詰まっておりなかなか面会の時間がとれなかったが、5月17日、大阪でのリサイタルを前に4人の養子を現地に呼んだのである。このときの記録は文献にこうある。

 

<広島市似島学園の茂木初雄君(9)はウルシにかぶれて来られなかったので、同市新生学園高田照子(15)、似島学園、中村靖次(11)、五日市市戦災孤児育成所永島嘉子(12)の三人が、九時間列車にゆられてやってきた。>(朝日新聞・昭和27年5月17日付)

 

 出迎えたトロウベルは、次々と大きな音をたててキッスをしたという。さらに、女子たちは宝塚歌劇団を鑑賞し、男子はプロ野球の観戦を楽しんだという。

 

 トロウベルは子供たちとの面会を「坊やは野球が好きなら明日見せてもらいましょうね」「照子さんはピアノが弾けるなら、明晩は、ボスさんのピアノが良く見える場所に、席をとっていただきなさい」と、大いに楽しんだという。付け加えれば、この時、中村靖次君が観戦したのは西宮球場での阪急対近鉄戦であり、カープ戦ではなかったが心に残る試合であっただろう。

 

(写真:2020年のヘレン・トラゥベル。提供:第37回全国都市緑化ひろしまフェア実行委員会事務局)

 さて、トロウベルが植えたトラゥベル・ローズは、その後どうなったのか? 広島バラ会による移植後、長年大切に育てられ、現在では広島市植物公園で管理され大切に育てられている。

 

 そのトロウベルから贈られた、命のバラともいえるトラゥベル・ローズは世紀をまたぎ、今年、2020年3月19日から5月24日まで第37回全国都市緑化ひろしまフェア「ひろしま はなのわ2020」において「平和のバラプロジェクト」としてお披露目された。メイン会場となったのは中央公園、奇しくも旧広島市民球場跡地であった。

 

 偶然で片付けてしまうには惜しい話である。51年間という長きにわたりカープが本拠地とした旧広島市民球場の跡地に、トロウベルが贈ったバラが咲き誇ったのだ。実に彼女の手で原爆ドーム前に植えられてから68年もの歳月を経て、原爆ドームのそばで再び咲き誇ったのである。

 

 長年、広島県民や市民らの手で手塩にかけてその生命をつないできたバラと、幾度かの球団消滅の危機を県民・市民の支えによって乗り越えてきたカープには共通点があるように感じられる。原爆により70年は草木が生えぬ土地といわれ、その荒廃した広島の地を飾ったバラと、復興のシンボルとして創設されたカープ。ともに広島県民・市民を勇気づけたことは間違いない。

 

 トロウベルのバラはカープファンならば一度は見てほしいと願うばかりだ。

 

 さて、「カープ誕生における世界情勢」の項は今回で終了するが、トラゥベル・ローズを探求することで驚きの史実に出会った。次回は、「カープ誕生における世界情勢」の番外編として、その驚きの植樹の史実をお伝えする。野球の生まれたアメリカからの大きな贈物であったことを申し添えておこう。乞うご期待。

(つづく)

 

【参考文献】  「朝日新聞」(昭和27年4月23日・5月9日・5月12日・5月13日・5月14日・5月15日・5月16日・5月17日・5月18日・9月16日)、「中国新聞」(昭和27年10月19日)、『演奏家大辞典Ⅱ』(音楽鑑賞教育振興会)、『オックスフォード オペラ大事典』大崎滋生・西原稔(平凡社)、『岩波・ケンブリッジ 世界人名辞典』(岩波書店)
【取材協力】 2020親睦のバラプロジェクト
【*注記】  文中の氏名においては「ヘレン・トロウベル」「トロウベル」と記し、バラの品種は「ヘレン・トラゥベル」と「トラゥベル・ローズ」で統一させていただいた。

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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