「テルさんやチアキさんみたいな選手になりたい」

 そう村上礼華(ダイキアクシス)は、ビーチバレープレーヤーとしての理想像を語る。彼女の言う「テルさん」とは、松山東雲女子大学・短期大学の福井(旧姓・佐伯)美香監督の愛称で、「チアキさん」は楠原千秋氏のことを指している。ともに愛媛県出身、現役時代はビーチバレーでオリンピックに出場した名選手だ。村上がビーチバレープレーヤーとして形成されていく過程で、2人の存在を抜きには語れない。

 

 

 

 

 

 

 福井監督とは高校3年時に出会った。そもそもビーチの世界に村上をスカウトしたのは福井監督である。村上は2012年に入学した淡路三原高校で、大型セッターとして頭角を現していた。淡路三原は毎年夏場に一部の選手がビーチバレーの大会に出場することになっていた。

 

 村上は2、3年時に愛媛県伊予市で開催された全国大会「マドンナカップ」に出場した。2年時はベスト16、3年時にはベスト8に入った。飛び抜けた成績を残したわけではない。彼女も「悔しかった」と振り返る。それでも福井監督の目には、村上に光るものを感じたという。

 

 以下は福井監督の証言――。

「翌年(15年)から松山東雲女子大でビーチバレー部を創ることが決まっていたので、有望な選手を探していました。その中で目に入ってきたのが村上だったんです。ビーチバレーは、レシーブ、トス、アタックのすべてをできる選手が有利。村上はそこが均等でレベルも高かった。砂の上でも強打を打てており、“面白いな”と思いました」

 

 高校時代、村上のポジションはセッターだったが、チームはコートに2人のセッターを置くシステムを敷いていた。彼女の役割はセットアップ(トスを上げること)のほかに、アタッカーとしてスパイクを打つことも求められた。中学時代は「スパイクの練習はほとんどしなかった」という村上だが、淡路三原ではスパイクを打つ練習にも励んでいた。そこで総合的な能力が磨かれていったのだろう。

「いろいろなポジションをさせてもらったことが、今のビーチバレーにも生きていると思います」

 

 村上が3年の秋、福井監督は愛媛県ビーチバレー連盟の理事長らと共に淡路三原を訪れた。「周りからは、“他大学から声が掛かっている”との情報も入っていたので、ダメ元でも行ってみようと思いました」と福井監督。インドアで1回、ビーチバレーで2回、計3大会のオリンピックに出場した福井監督の来訪に、村上は舞い上がってしまったのかもしれない。村上は当時のことを「緊張し過ぎて何も覚えていないんです」と振り返るほどだった。

 

 福井監督の手応えは「五分五分」だったという。では、村上本人はどうだったのか。

「バレーボール自体はやり切ったとの思いがありました。最初、他の大学から推薦をもらえていることすら知りませんでした。だからそういう話をいただいていると聞いた時に、“どうしよう”と迷いました。でもやっぱりインドアはやり切ったという気持ちが大きく、“このままやっても”と考えました。そして何より“佐伯美香(福井監督)さんに教えてもらいたい”“新しいことにチャレンジしたい”と思い、東雲に行こうと決めました」

 

“新しいことにチャレンジ”

 

 松山東雲女子大は、その名の通り愛媛県松山市にある。村上にとって松山市はマドンナカップなどで足を踏み入れたことがあるとはいえ、親元を離れて見知らぬ土地で新たな生活を始めることとなる。

「私が人見知りというのもあったし、誰も知らないところに行くことはなかったですから、不安しかなかったです。ただそれ以上に“新しいことにチャレンジしたい”という気持ちがありました」

 

 入学1年目は、村上しかビーチバレー部員がいなかったことから、インドアと並行しながら競技人生をスタートすることとなった。高校時代にビーチバレーを経験済みとはいえ、まずは競技に慣れるための練習を積んだ。

「コーチと言えば、私の中では“こうした方が良い”とアドバイスをくださるイメージでした。でもテルさんはまず選手の考えを聞いてからアドバイスをくれる。自主性を重んじる指導でした。ビーチバレーは監督、コーチがコートに入れません。だから、どう戦略を立てるかなど自分たちで考えることも大事。自分で考えることが身につきました」

 

 オリンピアンのプレーを肌で感じることができたのは貴重な経験だ。

「テルさんには球出しをしてもらいましたが、現役じゃなくてもすごく重たいボールを打つんです。吹き飛ばされそうなくらいでした」

 それが彼女の血となり、肉となっている。もうひとりのオリンピアンからも多くのことを学んだ。04年アテネ、08年北京と2大会連続でオリンピックに出場した「チアキさん」こと楠原氏とは、大学2年時からペアを組んだ。

 

「2年間ペアを組ませてもらったんですが、ペアだけどコーチみたいな存在でした。コートの中で指導してもらいましたね」

 一緒にプレーすることで楠原氏のテクニック、メンタル面に間近で触れられた。「練習や試合のどのプレーもすごい」という抜群の安定感は、ペアではなくなった今も「テルさんやチアキさんみたいな選手になりたい」と思わせるのに十分な理由のひとつだ。

 

 一方で、ペアを離れたから分かったこともある。

「プレー以外でも組んでいる時に私のテンションが下がらないような声掛けだったり、雰囲気づくりをしてくれていた。正直、当時はあまりわかっていなかったんですが、他の人と組ませてもらうようになって、そのことに気付きました。ペアをコントールすることはすごく大事なことだなと思います」

 

 2人のオリンピアンとの出会いが、彼女を大きく成長させた。大学1年時に16年のU-21アジア選手権、同世界選手権に出場。アジア選手権は準優勝、世界選手権は9位タイに入った。翌年のU-21アジア選手権でも準優勝を果たした。同世界選手権はトーナメント初戦で敗れたものの、世代別の国際大会を経験し、結果も残すことができた。

 

「最初は“私なんかが選ばれていいのかな”と思っていました」という村上にとっては、U-21アジア選手権準優勝は「ビーチバレーがもっと楽しくなった」と大きな自信になり、そして同世界選手権は「自分たちとはレベルの違う選手がたくさんいた。“あの中で私も戦いたい”と思う気持ちが芽生えました」とのモチベーションに繋がったのだった。

 

(最終回につづく)

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村上礼華(むらかみ・れいか)プロフィール>

1997年1月10日、兵庫県生まれ。ダイキアクシス所属。小学1年からバレーを始める。淡路三原高校入学後、ビーチバレーを経験。高校女子全日本選手権大会で松山東雲女子大学コーチである福井(旧姓・佐伯)美香の目に留まり、同大へ入学した。17年からシニア日本代表入り。U21アジア選手権大会準優勝の好成績を挙げた。18年は全日本大学選手権に優勝し、世界大学選手権大会に出場。ジャパンビーチバレーボールツアー(BVT)で初優勝した。昨年から坂口佳穂(マイナビ)と本格的にペアを組み、BVT2戦で優勝。同ファイナル初制覇を成し遂げた。11月にはFIVBワールドツアー1starイスラエル大会を制した。身長173cm。

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(文/杉浦泰介)

 

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