村上孝雄と聞いてもピンとこない。オールドファンには宮川孝雄である。代打の宮川――。これほど勝負強いバッターは他にいなかった。

 

 そして、この勝負強さが、後のスカウト活動に生きたのではないか。私はそう考えている。今回は現役時代を宮川、スカウトになってからを村上と分けて書く。

 

 1959年オフに門司鉄道管理局からカープに入団した宮川は、15年間の現役生活で規定打席不足ながら3割以上を4回も(1964年=3割3分7厘、1965年=3割7厘、1967年3割、72年=4割4厘)マークしている。

 

 神様、仏様と並び称された西鉄の稲尾和久に、カープ時代の内田順三が「昔のカープで印象に残っている選手はいますか?」と訊ねたところ、「カープの選手は誰も知らんけど、宮川というのは覚えている」と答えたというエピソードが残っている。

 

 その件を宮川に質すと、「オープン戦で稲尾が得意とするスライダーをヒットにした。それがショックだったんじゃろう」と語っていた。

 

 不思議なのは、稲尾が恐れるほどの強打者を、なぜカープはレギュラーにしなかったのかということだ。宮川によると、守備が得意ではなかったことに加え、カープのクリーンアップが頼りにならなかったからだというのである。

 

「私がプロ入り6年目の時に、監督が白石勝巳から長谷川良平さんに交代した。当時のウチのクリーンアップは興津達雄、大和田明さん、藤井弘。長谷川さんが嘆くんです。“ウチの3、4、5番はアテにならんから、オマエが代打に回ってくれ。頼む”と……」

 

 最初は乗り気ではなかった宮川だが、長谷川に「代打に回ってくれた分の給料は会社が負担するようワシが頼んでおく」と拝み倒され、渋々、納得したというのである。

 

 代打で生きる者は、ある意味、レギュラーより過酷である。一球で仕留めるか、仕留められるか。熟達の技術、卓抜の読み、そして修羅場の決断力が求められる。仕事場を打席からネット裏に移してからも村上は、獲物を追うタカのような目でターゲットを追い続けた。

 

 村上が選手を品定めする上で、最も重視したのがキャッチボールである。「ここが野球の基本。これだけは教える人がしっかりしていないとダメ」というのが持論だった。

 

(後編につづく)

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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