シリーズでお伝えしてきた「カープ誕生における世界情勢編」。前回はオールドアメリカの音楽界をけん引した歌姫ヘレン・トロウベルから贈られたバラの花のことを記したが、この取材で数多くの資料にあたる中、筆者は平和公園に植えられたアメリカからもたられたあるハナミズキの写真と出会った。


 その写真は「広島市青年緑化協会」の冊子『樹』(昭和53年12月発行)に掲載されており、脚注には「寄贈者:原爆投下米軍飛行士」「年代:昭和30年」とあった。原爆投下飛行士が広島に花を寄贈!? この衝撃の事実の真相を調べるべく、今回のカープの考古学は「カープ誕生における世界情勢編」の番外編として、このハナミズキに触れさせていただこう。

 

 近藤紘子の証言

 アメリカ原産であるハナミズキは歴史上、日米間の友好のシンボルと言ってもいい樹木である。広島の平和公園に原爆投下飛行士がハナミズキを寄贈したというニュースは当時の新聞記事にはなかったものの、会報誌やパンフレットに記されていた。原爆資料館内に所蔵された資料である小冊子の中に書かれた一文を引用する。

 

<広島の竹屋公民館で出されているパンフの中に、平和公園や平和大通りの樹木について調べたものがある。その説明に、広島に原爆を投下したB29のエノラ・ゲイ号の飛行士が、1955年に平和公園内に植樹したという「アメリカハナミズキ」のことが記されている。>(「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」通信・1994年)

 

 この冊子の出典である広島市中区にある「竹屋公民館発行・パンフレット」をあたると、そこに「ハナミズキ/原爆投下飛行士昭和30年植樹、ミズキ科ミズキ属落葉樹」とあった。

 

 昭和30年当時、アメリカの世論には「戦争を終らせるために」と、日本への原爆投下を正当化する声も当然のようにあった。一方、これまで当欄で触れたように、アメリカで被爆地・広島を救えと声を上げ、行動を起こす人たちも数多くいた。ハナミズキを贈ったとされる米軍飛行士も、良心の呵責にさいなまれ、それが記念樹の寄贈につながったことは想像に難くない。果たして真実は……。

 

 筆者はこの米軍飛行士の思いに触れたいと考え、取材活動を続けることとした。取材先は市役所職員OB、平和活動家、政治家など多岐にわたり、さらに多くの関連機関にもあたった。その中で、ある人物の名前を聞いた。近藤紘子(こんどう・こうこ/76歳)である。

 

 彼女は、世界的な平和活動に貢献した人物に贈られる谷本賞の祖である広島流川教会の牧師・谷本清(故人)の長女である。

 

 紘子は昭和20年8月6日に被爆し、建物の下敷きになりながらも、母チサに抱きかかえられ、奇跡的に助かったという人物である。現在も谷本清の娘として、世界各国で数々の講演をこなし、平和を伝える役目を全うしている。

 

 実は紘子は、昭和30年にアメリカを訪れ、当時の超人気テレビ番組「This is your life」(NBC)に出演し、原爆投下を行ったB29エノラ・ゲイ号・副操縦士であったロバート・ルイスと共演しているのだ。彼女ならば寄贈されたハナミズキの真相を知っているのかもしれない。彼女に話を聞いた。

 

 当時、父の清はアメリカ各地において、核兵器廃絶に向けた平和運動を展開し、講演活動をしながら、原爆で体や顔面にケロイドを負った"原爆乙女"らの治療をするために、アメリカと日本の架け橋となって奔走していた。

 

「小さい頃はね、お父さんに、"お前は原爆の中でも生かされたのだから、平和の活動のために生きなさい"と言われ続けて、反抗したこともありましたよ」と紘子は言う。だが、76歳になる現在まで父の精神を受け継ぎ、「生きているのではなく、生かれた命なのだから、自分の使命を全うしなさい、というのが父、谷本清の考え方でした」と述懐する。

 

 彼女に会った際、原爆投下米軍飛行士により、広島平和記念公園に寄贈され、1955年から、猛暑で枯れる1994年までに咲いていたハナミズキについて尋ねてみた。

 

「お父様である清氏が市民感情に配慮されて、公表されずに持って帰られたのでしょうか?」と聞くと、「いや、それはちょっと調べたいですね」との返事であった。ハナミズキが寄贈され、植樹されたことは初耳であったようだ。

 

 人気番組の演出

 次に彼女がアメリカに渡り、原爆投下米軍飛行士ルイスと共演したテレビ番組「This is your life」について聞いてみた。

 

 この番組は広島から平和の使者としてやってきた谷本清の人生を振り返る劇的なドキュメンタリーとして放送された。

 

 番組は谷本清が香川県坂出市に生まれ、関西学院大学からアメリカへ留学したことが解説され、当時の留学先である学校の恩師や友人らと感激の再会をしながら、ドラマ仕立てで進行していく。人気番組らしく、流れるような演出は惹き込まれるほどだった。

 

 番組が進むと、原爆投下飛行士でB29副操縦士の肩書を持ったルイスが登場する。これは実に驚きの演出であった。

 

 原爆投下直後、彼がノートに記した言葉を谷本に伝え、原爆投下を悔いたシーンは印象的である。

 

 原爆投下の任務を終えたエノラ・ゲイは、帰還前に広島の町を再度確認しようと、航路を変え、広島上空に後戻りした。そこで、広島の町が完全に消滅していたことに驚いたルイスは「おお、神よ、我々はなんということをしてしまったのか」とノートに記した。それを谷本に打ち明けたのだ。

 

 計り知れない甚大な被害を及ぼし、その役目を負ったパイロットとしての胸に内が全米に向け放映されたのだ。

 

 この後、番組はさらなるサプライズを用意していた。谷本の伴侶であるチサが登場し、さらに子どもら、紘子(当時10歳)、建(7歳)、純(4歳)、信(2歳)が、全員が舞台に登場した。それを谷本が抱き締めるのだが、これらすべてが本人には事前に明かされていなかったのだ。

 

 このとき出演を待っていた控室での紘子の気持ちを聞いた。当時、10歳の子供である。

 

「原爆を落とした人が悪い」と心に信じて疑わなかったというが、最初にルイスを見たときにキッとにらみつけた。しかし、番組の中で、ルイスの後悔している気持ちに触れたときにこれまでの誤解が解けていった。「この人も苦しんでいたんだ。憎むべきは、この人ではなく、戦争や、核兵器そのものなのだ」と紘子は気づかされたという。

 

 この番組の放映から、アメリカの世論にも原爆による被爆者を救おうという思いが広まり、治療費のためにと寄附が寄せられた。また、谷本自身の講演活動もアメリカ全土に及び、広がるのである。

 

 国家も動かした制作の舞台裏

 今回の取材でハナミズキを広島に寄贈した飛行士がルイスであるという確証は得られなかったが、「This is your life」の制作におけるNBC放送局のみならず、アメリカの力に驚かされたので紹介しよう。

 

 もともと、谷本渡米の目的は番組出演ではなく、被爆者の治療をアメリカで行うことにあった。昭和30年5月、谷本は被爆者である原爆乙女25人らと共に岩国の飛行場からアメリカに向け、飛び立った。その翌日である。

 

 チサはある宣教師を通じて電話を受け、チサをはじめ、紘子、建、純、信の4人姉弟が呼び出されることになった。伝えられた内容は「すぐにアメリカに来なさい」というもので、番組のことも何も一切知らされていなかった。

 

 小学校の授業中にことを知らされ早退した紘子は、理由も分からず、アメリカに行くことだけを告げられた。先に母親のチサが幼い純と信を抱いて、急行・安芸に飛び乗ったという。さらに、翌日、叔母に連れられ紘子と、建も列車に乗って東京へ向かった。理由を知らされていない中で、何かが起こっているんだと感じながら、言われる通りに従った。

 

 東京で母チサたちと合流し、全員で外務省の窓口に行ったが、「パスポートの発行は1日ではできない。飛行機に乗れない」という窓口係員とのやりとりがあった。だが、後ろから出てきた上役が「谷本様ですね、うかがっております」と奥に通され、パスポートを手渡されたという。紘子は後に気付くのであるが、このパスポートを提示するたびに通関の人がにこりと微笑んだという。不思議に思った紘子がパスポートをのぞき込むと、「テレビ出演のため」と書かれてあったという。

 

 これら全てのこと口外するのを禁止されたチサと子供4人は一切を語らず、羽田から、アメリカに向けて飛び立つことになった。当時のプロペラ機は最初はウエーキ島、さらにハワイと2カ所の給油を経て、アメリカへ向かった。この時のことを紘子はこう振り返った。

 

「給油している間、他の方は、売店があるところを歩けたんです。私たちは、飛行機から降りたらいけないといわれ、ずっと飛行機の中にいました」

 

 父の清は前日にアメリカに向かい、ハワイには前日から滞在していた。サプライズを貫くためにも紘子たちは一切飛行機を降りることが許されなかった。

 

 こうした"軟禁状態"はアメリカ到着後も続いた。テレビ番組のサプライズ成功が優先され、家族の一切の行動が管理され、ホテルにはほぼ軟禁、敷地内に閉じ込められていたという。

 

 なお、この「This is your life」は、主演者の人生の節目を支えたすべて人々を登場させる超サプライズ演出の番組として人気を博していた。このとき紘子が一番驚いたサプライズは、以下のようなものだった。

 

 副操縦士ルイスが出演する直前の通路には、なんと2名の原爆乙女が待機しており、傷を負った彼女らと顔を合わせた後、生放送のスタジオに入ったのである。いかに原爆の被害が酷い傷を負ったかを見せているようであったと感じたという。紘子は「番組の意図が見え隠れするようでもあった」と振り返っている。

 

 この番組の出演記念にもらったブレスレットには、谷本清とサチの結婚記念日と教会の絵が描かれ、さらに4人姉弟の靴の絵と名前が刻まれていたという。出演決定からわずかな期間で情報を仕入れ、制作し、日本の外務省や航空会社まで動かしたサプライズの演出は神がかっており、アメリカンパワーが存分に発揮されたともいえよう。

 

 さて話を本論に戻すとしよう。昭和30年に平和公園内にハナミズキが、原爆投下米軍飛行士によって植えられたことの手掛かりはつかめなかった。しかし、次なる手がかりとして、紘子の弟・建がこんなことを教えてくれた。

 

「父・清がエモリー大学に通ったときに、そこの同窓生に、原爆を投下した時の飛行士の方の写真があったと思います」

 

 実に興味深い話である。これを手がかりに今後も独自に取材を進め、アメリカハナミズキの植樹の実態の解明につながれば幸いである。

 

 過去3回と今回の番外編まで記した「カープ誕生における国際情勢編」はいったん終回とさせていただく。カープはこうした戦後のアメリカとの関係に揺れ動いた復興期に誕生し、草創期を歩んでいったのである。

 

 さて、次回からは「カープの考古学」本論に戻ろう。いよいよ創設初年度のシーズンに臨んでいくことになる。現在のようにカネもモノも満たされた時代ではない状況の中で、悪戦苦闘しながらカープは壮絶な初シーズンを戦っていくことになる。
(つづく)

 

【参考文献】 「広島市青年緑化協会」の冊子『樹』(昭和53年12月発行)、「ヒロシマナガサキの修学旅行を手伝う会」通信・1994年、『中国新聞』夕刊昭和33年7月29日、『毎日新聞』令和2年10月18日、『広島原爆とアメリカ人・ある牧師の平和行脚』谷本清(NHKブックス)、『ヒロシマ、60年の記憶』近藤紘子(二見書店)

 

【協力】 広島市都市整備局緑化推進部緑政課、広島市立中央図書館、広島平和記念資料館、山木靖雄、渡部正明、渡部朋子、平岡敬、秋葉忠利(順不同・敬称略)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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