二宮清純「“侍・前田智徳”を生んだ村上孝雄のスカウト人生」(後編)

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 村上の眼鏡にかなったのが、1986年のドラフト3位・緒方孝市(鳥栖高)と1989年のドラフト4位・前田智徳(熊本工)である。

「2人ともヒジの使い方、そしてボールを放す位置。これにバラつきがなかった。ここが上がったり下がったりしているようではモノにならないんです」

 

 甲子園未出場の緒方の3位はともかく、甲子園に3度も出場している前田の4位は順位としては低すぎるのではないか。それには“怪文書事件”が関係していた。

 

「実はね、熊工の野球部の後輩がヨソの学校の野球部員に殴られたことがあったんです。それに怒った前田が、その学校にひとりで乗り込み、全員をのしてしまったという文書が出回っていた。

 当時のスカウト部長は備前喜夫さん。その文書を見て“獲るのをやめよう”と言い出した。もちろん、私は反対しましたよ。“今どき珍しいくらい律儀で責任感のある子やないか。ワシが責任持つから、アンタつまらんこと言うな”と。

 でも結局は、この文書が良かったのかもしれません。あれほど素質のある子が4位まで残っていたのは、他の球団が、この文書を読んで手を引いたからでしょう。前田と広島にとっては“幸運の手紙”やったかもわからんね」

 

 村上は保身に走らず、勝負に出た。一振り稼業で磨かれた勝負勘が生きたのである。

 75年のドラフト1位・北別府学(都城農)指名の決め手は、母親の“賢母”ぶりだった。親を見れば、子供がわかる。村上は、よくそう語っていた。

 

 北別府は甲子園に出場していない。3年夏の宮崎県予選は準決勝で敗退している。日南打線に15安打を浴び、6点も取られた。これで北別府の評価は一気に下がった。

 

 しかし、村上は完封勝ちした準々決勝の宮崎日大戦を見ていた。150キロ近いスピードボールを持ちながら、コントロールを重視し、勝負に徹したクレバーなピッチングにプロ向きとの確信を得た。日南戦の大敗は、雨天中止予想によるウォーミングアップ不足と看破していた。

 

 村上の北別府への揺るぎない評価は、親への“取材”が元になっていた。

「お母さんは毎日、昼飯代として500円を渡したそうです。普通なら渡しっぱなしになるところを、お母さんは100円でも50円でも余ったカネは全部もらっていた。なぜかと聞くと、たとえ100円や50円のお釣りでも塵も積もれば山となる。それをいい方向に使うとは限らんでしょう、というわけです。いやぁ、このお母さんはしっかりしていると思った。息子も真面目になるはずですよ」

 

 カープを支えた名選手を何人も発掘し、獲得してきた村上だが、当たりばかりではない。中には“ハズレ”もあった。

 

 それでも村上が名スカウトと呼ばれ、こうして特集まで組まれるのは、限られた予算の中、たとえ今は無名でも、数年後にはチームを背負って立つダイヤモンドの原石を発掘し、獲得するという難しいミッションから逃げなかったからだろう。

 

 そう言えば、宮川は変わった記録を持っている。規定打席不足ながら、1966、1967年と2年連続でセ・リーグの“死球王”になっているのだ。つまり、彼は打席でも逃げなかったのだ。

 

 その点を質すと、村上は事もなげに、こう言ってのけた。

「1回しか打席に立てないのに、何の仕事もせずにベンチに帰るわけにはいかんでしょう」

 逃げない。立ち向かう。そして勝負する――。この姿勢は終始一貫していた。

 

(おわり)

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)

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