カープ草創期の広島にはアメリカをはじめ、さまざまな国から支援物資など、復興への思いを込めた援助があらゆる形で寄せられていた。このことは前回までで述べてきた。こうした復興へ歩みを進める中、カープはチームの体制を整え、昭和25年、初のシーズン開幕へ向かうことになった。


 初キャンプは昭和25年1月16日から、広島総合球場で行われた。練習が進み、体が仕上がってくると、当然ながら試合をしようということになるのだが、相手チームがなかなか見つからなかった。というのも、この年のプロ野球は前年の1リーグ8球団から2リーグ15球団へとチーム数が増加し、それに伴い選手の引き抜きや二重契約などが横行しており、そうした選手獲得合戦による混乱があった。それが一段落し始めたのは2月になってのことだった。

 

 そうした状況もありカープは広島県内で紅白戦を行うこととなった。紅白戦とはいえ、地元でのお披露目である。いち早く中国新聞がトピックスとして報じた。

 

「カープ・五市で紅白試合」(「中国新聞」昭和25年2月16日)との見出しが躍り、ファンの注目が集まった。

 

 五市とは、球団に出資を行う広島市、福山市、呉市、尾道市、三原市の5つの自治体のことである。試合日程は2月17日の福山市・三菱電機球場を皮切りに、18日に廣町元三中球場、19日に広島総合球場、そして、28日は帝人三原工場新設球場であった。なお、当初、尾道市は日時未定と報じられたが、実際に試合は実施されなかった。

 

 この紅白戦は、県内の球団に出資する市を回ることで、カープの御披露目を行い、ファンの勢いをつけ、自治体からの出資にも弾みをつけていこうとの思惑があったことは容易に想像できる。理由はともあれ、ファンにとってみれば、郷土にできるプロ球団である。一目、選手らをみたい。ならば、球場で歓待しようじゃないかと、準備に大わらわ。当日、球場は大賑わいを見せ、詰めかけたファンは選手の一投一打に目を見張ったのだ。

 

 打撃戦に大喝采

 カープお披露目の紅白戦、記念すべき第1戦は2月17日、広島市から約100キロ離れた福山市で行われた。

 

 白石勝巳や磯田憲一、阪田清春らが主力となる紅軍。対する白軍は岩本章を中心に、カープ初代キャプテンの辻井弘らで構成された。互いに火花を散らした試合は、両軍あわせて21安打が乱れ飛ぶ打撃戦となり、球場に詰めかけたファンを喜ばせた。結果は長単打をうまく重ねた紅軍が、10対5と白軍を圧倒した。

 

 この日の試合を中国新聞はこう伝えている。
<この日、福山市では、駅前に鯉のぼりを立てて郷土の球団カープ軍を歓迎>(「中国新聞」昭和25年2月18日)

 

 また突然の開催決定とあってか、オフシーズンの球場は草だらけの荒れ地で、ひどい箇所は、雑草が約60センチも伸びていたという。これに慌てた地元では<急いで、女人夫を五十人ほど手配して草刈りをすることにした>(カープ十年史『球』・読売新聞)という。<翌朝、球場が白みかけたころ、一列横隊のおばさんたちが、カマを手に外野からホームに向かって雑草を切りはじめた>(同前)

 

 早朝から集まった婦人たちを始め、地元総出の懸命な作業もあり、開門時間の2時間前の午前8時にグラウンドが出来上がった。まさに綱渡りでの開催であった。

 

 翌2月18日、紅白戦は呉市廣町にある呉三中グラウンドにて行われた。来場者は約2万人と、こちらも大盛況で当然、観客席に入れないファンが場外にあふれていた。

 

<グラウンドに入り切れない人たちは、近くの校舎の窓に鈴なりになっている>(カープ十年史『球』・読売新聞)というほどであった。

 

 この日も両軍ともに打撃好調で、18安打の乱打戦となった。山崎明男の満塁ホームランや白石のスリーランが飛び出し、一発長打の醍醐味を披露し、ファンを沸かせた。試合は9対6、前日やられた白軍が紅軍を破り、一矢報いた。

 

 呉市と福山市では<山と積まれた記念品が、贈られ、選手達を感激させた>(カープ十年史『球』・読売新聞)とあるように、果物籠カゴや花が多数贈られ、地元あげての歓迎ムードがあふれていた。

 

 翌19日は本拠地・広島総合球場に戻ってプレイボールとなった。1、2戦と変わらずこの試合も打ち合いとなり、8回表を終わって、7対4と紅軍がリード。8回裏、白軍の攻撃で、岩本のバットが火を吹いた。打球はレフトスタンドに飛び込むホームランとなった。

 

 これで2点差まで追い上げられた紅軍だったが、9回表に三連打で2点を加え、9対5。ほぼ勝負あったにみえたが、その裏、粘る白軍が1点を返し、なおもランナーを2人を置いて、再び岩本に打席が回ってきた。岩本はここで起死回生のスリーランを放ち、9対9。試合はそのまま引き分けとなったが、乱れ飛ぶ打球にファンは狂喜乱舞の喜びようだった。

 

 28日、帝人三原工場の試合は球場開きを記念して行われ、一部選手らを紅白で入れ替えてプレイボールとなった。この日、新人の長谷部稔がホームランを放ったことに加え、黒木宗行、山崎、角南効永、白石と主力らが続き、両軍で6本のホームランが乱れ飛んだ。新球場オープンに花を添えるアーチ合戦の結果、16対7で白軍が快勝した。。

 

 紅白戦を見たファンは「どこからでも打てる打線だ」と、カープの飛躍に期待を寄せた。新しく生まれる球団に浮足立っていたという面は確かにあっただろう。

 

 なお出資する自治体の一つである尾道市での試合は実現せず、その影響もあったのか尾道市からの出資は遅れ、結局、出資金の入金はカープ球団創設から3年目の昭和27年のシーズンが終わってからという結果になった(詳細はカープの考古学第8回参照)。資金供出に関して議会で議決されたのも五市の中で最後で、議決されるまで手間取り、盛り上がりに欠ける結果となったのだろう。

 

 ちなみに五市紅白試合の入場料は<大人が五十円、子どもは十円>(カープ十年史『球』・読売新聞)であった。入場料収入はカープの財政を大きく潤すはずであったが、そうはならなかった。<純益金は全部、児童の社会事業費に寄付することになった>(「中国新聞」(昭和25年2月18日)からである。地元球団として原爆で家族を失った児童のためにという思いは正論である。だが、皮肉にもこの直後から少しずつ球団の財政状態が思うようにいかず、窮状があらわになっていった。

 

<ほとんどが野球経営に関してはズブの素人>(『カープ30年』冨沢佐一・中国新聞社)であるカープにおいて、監督の石本秀一を除いてはプロ野球の球団の運営に携わった者が誰もおらず、経営における先見性には欠けていたのが実情だった。

 

 松竹三人娘が登場

 この紅白戦第3戦と第4戦の間に、初のオープン戦として、松竹ロビンスと試合を行った。このチームは前年まで石本が監督をしていた大陽ロビンスが前身であり、この年から松竹が経営に参画することとなり、松竹ロビンスとなった。その松竹が広島県の隣、岡山県でキャンプを行っていたこともあり、オープン戦開催の運びとなったのだ。

 

 のちに水爆打線の異名をとった金山次郎、三村勲をはじめ、クリーンアップは小鶴誠、岩本義行、大岡虎雄らという、球界屈指の超重量打線を誇ったチームである。

 

 カープとの対戦は、現在では親子ゲームと呼ばれるもので、両チームの一軍同士の対戦と、二軍同士の対戦という、2試合が予定された。この試合の契約の席にはカープは監督の石本が、松竹はロビンス取締役である中川政人が臨んだ。契約会場はなんと広島市役所であった。当時の中国新聞にはこうある。

 

<オール・カープ対オール松竹の披露試合として、一軍対一軍、二軍対二軍の二試合挙行の契約を十四日午後四時広島市役所で、カープ石本監督と、ロビンス取締役中川政人氏との間に結んだ>「中国新聞・昭和25年2月15日)

 

 自治体出資で生まれたカープは、後に市民球団とよばれるようになるが、広島市役所で、初のオープン戦の契約をしたのは、実にカープらしいエピソードである。

 

 対戦相手となったロビンスは映画の興業を事業とする松竹らしく、中川取締役が「松竹映画の売り出し中の女優を連れてくる」と大見栄を切った。

 

<なお松竹本社では、ニューフェイス女優二、三名を派遣し、映画館とタイアップして野球、映画、実演の通し切符を発売する>(「中国新聞」(昭和25年2月15日))
<うちの映画の宣伝もあるし、野球と映画の通し切符を出してはどうでしょう>(「カープ十年史『球』・読売新聞」)

 

 このアイディアは、オープン戦前の2月24日に前々夜祭という形で実現した。会場は駅前にあった広島劇場である。前々夜祭について詳細は、「カープ十年史『球』・読売新聞」に記されており、以下、<カッコ>内は全て同書からの引用である。

 

<午後七時、館内は、人いきれでムシブロのようである。これが二月とは思えぬ暑さだった。松竹映画社からきたニューフェイスは若杉曜子、鮎川十糸子、三宅好子の三人。いずれもニュー・ファッションに身を包んで、楽団のメロディと共に舞台へすべり出た>

 

 若杉曜子といえば、後に眠り狂四郎はじめ、名画に出演している大女優である。また、鮎川十糸子も数々の映画に出演しており、後年には声優としてアニメ「ジャリン子チエ」のお婆さんの声を担当したのは有名な話である。

 

 三人娘は、この年7月に発売された美空ひばりのヒット曲「東京キッド」に乗って登場した。この曲の歌詞、「♪右のポケットにゃ 夢がある ♪左のポッケにゃ チゥインガム」のところで、<いいぞ!そうだ。カープはわれらの夢じゃ>と会場がはやしたてたという。

 

 そしていよいよ選手たちの登場である。

 

<はなやかな女優たちの歌が終わると、白石助監督を先頭に灰山コーチ、田中、武智、坂田ら五人が舞台に並んだ><われるような拍手と歓声、ピューッ、ピューッと口笛を吹くものなど、まさに興奮のルツボである>

 

 ここで助監督の白石は緊張した面持ちで登場するが、ファンを前に笑みを浮かべて<広島県あげてのチームであるカープへのご声援をお願いします>と挨拶すると、ファンは<「わかったッ。まかせておけッ」「がんばれッ」>と大きな声援で応えた。

 

 祭のフィナーレは選手たちのサインボール投げ込みで、これもファンを大いに喜ばせた。この前々夜祭で、カープファンは郷土に誕生したカープへの思いが明確になったであろう。

 

 2日後、2月26日にオール・カープ対オール松竹の試合が行われることになる。紅白戦では打たれることが多かったカープ投手陣であるが、松竹との試合では一筋の光がもたらされる--。カープファンをあっと言わせる出来事が起こるのだが、それは一軍戦ではなく二軍戦においてである。この話は次回にて。(つづく)

 

【参考資料】  「中国新聞」(昭和25年2月15日、16日、18日、19日、20日、23日、26日、27日、28日、3月1日)、「カープ十年史『球』・読売新聞」、『カープ30年』(冨沢佐一・中国新聞社)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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