等々力競技場に足を運ぶたび、上海のことを思い出す。

 

 初めて訪れた1988年冬の上海。行き交うバスは古くさく、公衆便所は悪夢だった。小籠包の美味しさにはたまげたが、留学していた大学時代の友人は店の箸を使わなかった。衛生上信用できないのだという。

 

 2001年に再訪したときは、だから、度肝を抜かれた。上海は、目が眩むほどの近代都市に変貌していた。

 

 等々力競技場は、わたしが高校時代、体育祭で使っていたグラウンドだった。最寄り駅でもあった武蔵小杉は、日吉や自由が丘といった駅に比べると古くさく、こぢんまりとした駅だった。

 

 だから、Jリーグ発足当時のヴェルディがここを本拠地とすることに強い拒否反応を示したのも、ラモスがひどすぎる芝生の状態に激怒したのも、正直、当然だと思っていた。

 

 あのころは、まったく想像できなかった。土壌の関係から良質の芝生は育たないとまで言われていたスタジアムに青々とした緑の絨毯が敷かれ、のっぺりとした観客席に立体感が生まれ、試合が開催されるたび、周辺にはお祭りの気配が漂う日が来るなんて。

 

 等々力が、日本サッカーの中心地の一つになるなんて。

 

 上海が短期間で急速に発展したのには、もちろん理由がある。武蔵小杉が大変貌を遂げた原因の一つは、横須賀線、湘南新宿ラインの停車駅ができた、ということになろうか。

 

 ではなぜ、川崎Fはこれほどずぬけた強さを発揮するようになったのか。決して資金的に潤沢なわけでも、巨大スタジアムを持つわけでもないチームが、偉大なチームにしかできないことをやってのけたのか。

 

 礎を作った風間八宏の存在はもちろん大きい。ただ、わたしがまず思い当たるのは、中村憲剛の存在である。

 

 発足当時のJリーグは、欧米の感覚からすると異様なほどに移籍の少ないリーグだった。移籍を活性化させることがリーグの発展につながると考えていた人間は少なくなかったし、実際、移籍は増加の一途を辿った。

 

 ただ、そこで見失ってしまったものもあった。

 

 生え抜きの重要性である。

 

 多くの選手にとって、所属しているクラブは単なる職場にすぎない。「このクラブは最高です」と言った選手は、移籍先でも同じことを口にする。これは、日本に限ったことではない。

 

 だが、ファンは選手ほどには愛するクラブを替えられない。移籍の活性化をうたいすぎるばかり、わたしたちはそこを疎かにしたのではなかったか。

 

 川崎Fには、中村がいた。このチームに入団し、このチームでユニホームを脱ぐ選手がいた。彼のチームに対する愛情に疑いが入る余地はないし、ゆえに、ファンも彼のいる川崎Fに熱狂することができた。チームで一番上手い選手が最大の忠誠心を見せたことが、他の選手に影響しなかったはずもない。

 

 単なる職場、海外移籍への踏み台ではなく、多くの選手に川崎Fでのプレーを目標とさせる役割を中村は果たした。チームにとって、これは何物にも代えがたい財産だったとわたしは思う。

 

 川崎Fを遥かに凌駕する資金力を誇りながら、しかし軸となる生え抜きのいないチームの惨状をみるたび、特にそう思う。

 

<この原稿は20年11月26日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


◎バックナンバーはこちらから