2007年春、甲子園に“室戸旋風”が吹き荒れた。第79回全国選抜高校野球大会、春夏通じて初出場の高知県立室戸高校が強豪の報徳学園(兵庫)、宇部商業(山口)を下し、堂々の8強入りを果たした。そして迎えた準々決勝の熊本工業戦。結果的に負けはしたものの、最終回には3連打の猛攻で2点を奪い、2点差まで追い詰めるなど、室戸は最後まで粘り強さを見せた。数多くの高校野球ファンが彼らの快進撃に目を丸くした。そして、どんな場面でも笑顔を絶やさず、楽しげにプレーする室戸ナインに釘付けとなった。
 その2年前、同校を卒業した小松剛は、母校の活躍をテレビで観ていた。後輩たちの勇姿に感動し、OBとして嬉しさがこみ上げたという。そんな彼にもまた、甲子園を目指して汗を流した時代があった。

 昨年、創部58年目で悲願の初出場を果たした室戸高校。高知県の東端に位置する人口2万人にも満たない小さなまち、室戸市でたった一つの高校だ。地元ではまちおこしの一環として1998年から「室戸高校野球部育成会」が発足され、地域ぐるみで野球部を支援してきた。

 85年にコーチとして母校の伊野商業を全国制覇に導いた横川恒雄監督が室戸に赴任したのは、育成会の前身「甲子園行かす会」(99年より「育成会」に名称変更)発足1年前の97年のことだ。育成会の支援と横川監督の指導の下、県大会で初戦敗退が当たり前だった野球部は、みるみるうちに強くなっていった。小松が入学した頃には、春季大会で2年連続決勝進出を果たすなど、県内では明徳義塾、高知、高知商に次ぐ強豪校の一つとなっていた。

 甲子園を本気で目指す横川監督の指導は厳しかった。練習は毎日5時間にも及び、帰りはいつも21時をまわっていた。学校から自宅まで少し距離があった小松は、育成会によってつくられた「いざな寮」で他の部員とともに3年間、寮生活を送った。寮は2人部屋で、部屋割りは毎年、監督によって決められていた。

 小松が2年の時のルームメイトは1学年上の戎井桂一郎だった。2人は投手陣の柱としてチームを支える存在で、いわばエースの座を争うライバルでもあった。横川監督は、その2人をあえて同部屋にしたのだ。

「同じピッチャー同士、野手よりもピッチングについて互いにアドバイスができるだろうと。それと、闘争心を抱かせるという狙いもあったんです。2人にはエースナンバーをつけるのは結果を残した方だと言ってありました。グラウンドの外でも一緒にいることで、常に相手を意識し、“負けられない”という思いを持ってほしかったんです」

 小松と戎井は学年が違うこともあり、それまでは特に仲が良かったわけではなかった。話をしても挨拶程度で、それほど深い話をしたことはなかったという。だが、同じ部屋で寝起きを共にするうち、いつしか先輩後輩を超えた友情が芽生えていった。もちろん、グラウンドではライバルだったが、互いに認め合ってもいた。

「戎井さんはすごくいい方です。人には優しいんですけど、自分自身には厳しいんですよ。人間的にとても尊敬できる人です」
「小松は野球に対して研究熱心で、よくいろんな本を読んでいました。夜、シャドウピッチングをしながら、いろいろとフォームを確認したりして、常に理想の投げ方を求めていましたね。だからこそ、あれだけ伸びたんだと思います」

 2人の間にはいいライバル関係が生まれ、互いを刺激し合うようになっていった。そして、いつしか朝練の前に、走り込みや筋力トレーニングをしながら切磋琢磨する2人の姿が見られるようになった。横川監督の狙いがズバリ的中したのである。

 エース争いに奮闘した日々

 新チーム発足後、背番号「1」を背負ったのは戎井だった。小松は「11」をつけていた。だが、その年の春、戎井の調子は芳しくなかった。四国春季高校野球県予選の準決勝では3回を8安打4失点。小松のリリーフに助けられ、チームは決勝にコマを進めたが、その決勝でも2番手としてリリーフしたものの、終盤、一気に3点を失った。

 そんな戎井とは逆に、冬場にトレーニングで下半身を中心にみっちりと鍛え上げた小松は、春になるとストレートの球威が増し、著しい成長を見せていた。春の県予選では準決勝で6回を2安打無失点に抑える好投を見せるなど、3試合計12回を投げて無失点。しっかりと結果を残し、監督の信頼を得つつあった。

「結果を残した方がエースだ」
 横川監督はこの言葉を実行に移した。5月の高知県高校体育大会、エースナンバーが渡されたのは戎井ではなく、2年の小松だった。
「初めてエースナンバーをもらった時のことは、今でもよく覚えています。とにかく、嬉しくて仕方なかったですね。でも、その嬉しさを戎井さんの前では出さないようにしていました。同部屋だったので、やっぱりちょっと気まずかったです。でも、戎井さんはすぐに気持ちを切り替えていたみたいですけど」

 だが、実は戎井は気持ちを切り替えられていたわけではなかった。
「小松の前では普通に話をしていましたが、内心はかなり落ち込んでいました。“どうしよう、どうしよう”と」

 かくして県体での初戦、小松は初めてエースナンバーを背負ってマウンドに立った。しかし、プレッシャーからか、相手打線に打ち込まれた。味方打線も援護しきれず結局、伊野商に3−4で敗れ、あえなく初戦敗退を喫した。
「いい気になっていた」。小松は敗戦の原因をそう語った。

 一方、ファーストとしてその試合に出場していた戎井は、小松の責任感の強さに驚かされたという。
「小松はこの試合のことが、かなりショックだったみたいです。しきりに『すみません』と謝っていました。当時、彼は自分で野球ノートをつけていたんですが、実はそれをこっそり見たことがあるんです。そこにも『先輩方に本当に申し訳ないことをした』と綴られていました」
 その試合を最後に、エースナンバーは小松から再び戎井の元へと戻っていった。

 そして、いよいよ夏。甲子園を目指す高知32校の熾烈な戦いの幕が切って落とされた。室戸の初戦の相手は小津高校だった。この試合で戎井は大会6人目となるノーヒットノーランを達成し、幸先よいスタートを切った。
 2回戦は優勝候補の筆頭に挙げられ、6連覇を目指す明徳義塾との対戦だった。この試合も先発は戎井だった。4回まで毎回のようにランナーを出すものの要所を締め、犠牲フライでの1点に抑えていた。

 5回裏、1死2塁の場面を迎えた。横川監督はここで継投も考えたが、左打者だったこともあり、左の戎井を続投させる選択をした。
「カーン!」
 戎井はフルカウントから手痛い2ランを浴び、点差は3点と広がった。結局、その後も室戸打線からは快音は聞かれず、明徳義塾に0−3で敗れた。

「お疲れ様でした」
 試合後、小松はそう言って1年間、共に励まし合い、刺激し合ってきた先輩と一緒に泣いた。
「戎井さんはすごく頑張っていました。だから『よくやったなぁ』という気持ちでした。ただ、明日からもう一緒に練習できないということが寂しくて仕方なかったんです」
 戎井も同じ気持ちだった。
「小松は色紙に『戎井さんがいたので頑張れました』と書いてくれました。僕だってそうです。同じ部屋で過ごしたことは、2人にとって本当に良かったと思います」

 戎井からエースナンバーと甲子園への夢を託された小松は、再び練習に打ち込んだ。もう、隣には尊敬するライバルの姿はなかったが、ゆっくりと感傷に浸っている暇はなかった。
「室戸で甲子園に行こう」
 夢の実現へのチャンスは、春夏一度ずつしかもう残されていなかったのである。

(第4回へつづく)


<小松剛(こまつ・たけし)プロフィール>
1986年9月26日、高知県高知市出身。小学3年に室戸市に転居し、友人の影響で野球を始める。小学5年から投手となり、高校は地元の室戸高校に進学。3年時にはエースで主将を務める。法政大学では2年春にリーグ戦デビューを果たすと、3勝をマーク。優勝のかかった大一番にはリーグ戦初完投で胴上げ投手となった。リーグ戦通算8勝9敗。今秋ドラフトの上位指名候補選手としてプロからも注目されている。180センチ、80キロ。右投右打。











(斎藤寿子)
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