香川県坂出市で生まれた多田羅英花は小さい頃、おとなしい少女だった。本人によれば「兄や妹は外で鬼ごっこや野球をしていましたが、私は部屋でままごとすることが多かったです」という。母・光代も「あの子だけ家にいたり、どちらかという文化系だったかもしれません」と証言する。どちらかと言えば、スポーツよりも勉強が好き。そんな幼少期だった。

 

 小学生の頃はバレーボールチームに入っていたが、それも競技に夢中となったからではなかった。多田羅はこう述懐する。

「仲の良い友達がバレーボールチーム入っていたからです。私がチームに入ったのは、その友達と遊びたかった。だから練習に参加するというより、体育館の隅で友達と話してばかりいました」

 

 坂出市にはカヌー競技場のある府中湖があり、カヌーが盛んなまちとして知られる。だが、多田羅の父と母は競技と無縁だった。母・光代は、子供たちを産んでからジェットスキーに夢中になり、国内の大会で優勝するほどの実力者だった。練習に向かう両親と一緒に海へ行く機会も多く、水には親しみがあった。だからか3きょうだいは、そろってカヌーの道に進んだ。

 

 多田羅は白峰中学に進学してからカヌーを始めた。その頃には2歳上の兄も既に同中カヌー部に所属していたが、彼女の動機は「楽そうだったから」だった。

「中学から府中湖まで自転車で30分ほどかかりました。実際、カヌーに乗るのは30分あるかないかくらい。“楽そうだな”という印象だったので、入部を決めました。最初は友達と府中湖までの道のりを話しながら自転車を漕ぐのが楽しかったんです」

 小学時代にバレーボールチームに入った時と似たような感覚で始めたのだった。

 

 そんな彼女が競技に魅力を感じ、“速くなりたい”と思い始めたのは、兄がきっかけだった。ある日、多田羅の目に映ったのはカヌーに乗る兄の姿だった。

「ちょうど夕日に照らされていて、水しぶきを上げながら漕ぐ兄の姿がすごくカッコ良かった。それで“私もカヌーを頑張りたい”と思うようになったんです」

 

 白峰中は全国大会で優勝するほどの強豪校だった。さらに同期には、小学校からカヌーを始めていた者が3人いた。なかなか同期に勝てずに悔しい思いは何度も味わった。

「負けず嫌いだったので、“同い年、同じ人間なのになんで負けるだろう”と思っていました。その3人はとても良い子たちで、私にカヌーをたくさん教えてくれました」

 多田羅は仲間と切磋琢磨しながら、3年時にはフォアのメンバーとして全国制覇を経験することができた。

 

「同期の子が『英花に金メダルを掛けてあげたい』と言ってくれた。それがうれしいと同時に“私が足を引っ張ってはいけない”という思いもありました」

 重圧を乗り越え、多田羅にとっては初の日本一である。悔しい思いも少なくなかった3年間を「私は3人がいてくれたから中学3年間を頑張れました」と振り返る。

 

 悔しさと楽しさの3年間

 

 中学卒業後、同期の多くは坂出高校に進学したが、多田羅は別の道を歩むことにした。彼女が選んだのは、三豊市にある強豪・高瀬だった。通学には電車で約40分かかる。それでも多田羅が高瀬を選んだのは、カヌー部顧問の安藤恵子教諭(現・香川西部養護学校教諭)の存在があったからだ。

「練習場も違うので試合や合宿の時しか、安藤先生にお会いすることはなかったのですが、とても情熱溢れる方で“私も教わりたいな”と思っていました」

 

 情熱的な指導者の存在に加え、母・光代は高瀬への進路を選んだ理由をこう口にする。

「4人で日本一を獲ったので、“あのフォアのメンバーやろ”と思われることがすごく嫌だったみたいですね。その頃から、“いち選手として見てほしい”という気持ちが芽生えてきたんだと思います」

 

 実際、安藤教諭にとっても最初は「頑張り屋4人の中の1人」との印象だったという。4人の中で多田羅が際立っていたわけではない。だが直接指導をするようになって、彼女に対する「頑張り屋」のイメージはさらに濃くなっていった。

「諦めずに毎日妥協なく練習できる子です。部員全員に書かせていた練習日誌も、彼女の場合は自分のできなかったことに関して“次の日はこうしたい”と前向きな言葉が多かった。課題がクリアできるまで陸に上がってこなかったり、粘り強い子でしたね」

 

 安藤教諭によれば、努力家の多田羅が弱音を吐くことはなかったという。それについて本人に聞くと、こう答えた。

「元々、弱音を吐くのは得意ではなかったということもあります。それに安藤先生が自分の弱さを見せるような人ではなかった。だから私も“そうなりたい”と思っていました」

 天賦の才を発揮していたわけではない。コツコツと積み上げていくタイプなのは今も昔も変わらない。

 

 高瀬では多田羅と別の中学に通っていた妹と先輩後輩となった。しかし、母・光代曰く「子供の喧嘩」ばかりだったという。「妹は天真爛漫なタイプ。2人はタイプが違うので、喧嘩している姿をよく見ました」。2人を指導した安藤教諭も「良きライバルという感じで、練習中もよく喧嘩していましたね」と笑っていた。

 

 だが高校3年間、個人種目で全国大会のタイトルを掴むことはできなかった。全国高校総合体育大会(インターハイ)には出場することすらできなかった。

「勝つことはできませんでしたが、カヌーの楽しさを改めて知ることができました。悔しい3年間でもあり、すごく楽しい3年間でした」

 

 だから大学に行っても競技を続ける気になった。恩師の存在が大きかった。

「安藤先生からは『どうせやるなら日本一になりなさい』と3年間、言われてきました。私は高校に行くまでは“ただ速くなりたい”という気持ちだけでカヌーをしていました。それが“日本代表になりたい”とまで思うようになったのは、安藤先生のおかげです」

 ゆえに次の航路に選んだのは兵庫県西宮市にある武庫川女子大学だった。同大は恩師の母校である。

 

(第3回につづく)

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多田羅英花(たたら・ひでか)プロフィール>

1992年9月2日、香川県坂出市生まれ。中学からカヌーを始める。白峰中3年時に全国優勝。高瀬高3年時でジュニアの日本代表、武庫川女子大学2年からはシニアの日本代表に選ばれている。大学3、4年時には全日本大学選手権で複数種目を制し、2年連続MVPを獲得した。18年にインドネシア・ジャカルタでのアジア競技大会カヤックペアで銅メダルに輝いた。今年3月の国内代表選考でカヤックシングルで1位に入り、東京オリンピックの出場権をかけたアジア予選の代表入りを果たした。9月の日本選手権では同種目で初優勝。身長158cm。

 

(文/杉浦泰介、写真/本人提供)

 

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