プロ野球は日本シリーズが終わり、主力選手の契約更改もほぼ完了。現在はシーズンオフ真っ只中です。今の時期、選手は体を休め、リフレッシュし、そして自主トレを行い来季に備える時期です。来季に向けての話の前に、福岡ソフトバンクの4連勝で終わった日本シリーズについて触れておきましょう。

 

 4度のシリーズ4連勝

 これは日本シリーズの直後にTwitterに投稿しましたが、日本シリーズ史上4連勝での決着は7回(引き分け含まず)あり、ソフトバンク工藤公康監督はそのうち4回(90年、02年、19年、20年)に現役、指揮官として関わっています。加えて日本一に輝いた回数は16回ですから、これはもう年中行事みたいなもんです。

 

 余談ですが私も現役(90年・西武)とコーチ)(02年・巨人)で2度、4連勝を経験しました。西武、巨人でこのどちらにも絡んだのは私と鹿取義隆さんだけじゃないですかね。

 

 それにしても工藤監督の短期決戦での強さには驚かされます。ピッチャー出身ですから継投の冴えはもちろんですが、攻撃面でも鋭い采配を見せていました。お見事でした。

 

 巨人が日本一になるには7戦までもつれる展開が必要でした。頭を菅野智之で勝ち、さらに第5戦も菅野でとって2勝。そういう展開に持ち込めなかった時点で、巨人は厳しい戦いでしたね。

 

 13年、東北楽天のコーチ時代の日本シリーズもそうでした。あのとき巨人相手に「4連敗もあり得るな」というのが楽天首脳陣の冷静な分析でした。こっちが勝つなら7戦までもつれ4勝3敗しかない、と。で、このときは則本昂大が活躍してくれました。マー君(田中将大)がクローズアップされたこの年ですが、則本は初戦の先発、そしてその後はリリーフとして良いピッチングを見せてくれました。

 

 今回、巨人の敗因がDHの有無という見方がありますが、確かにあのときも楽天はセの本拠地で苦戦しましたよ。則本の続投を決めて打席に送り出したら、フォアボールで出塁。結果、決勝のホームを則本が踏むことになりますが、まあケガの心配や肩の冷えなど、投手が打席に立ったり、出塁したときのストレスはハンパではありませんでした。先月と繰り返しになりますが、今年の巨人も全試合DHでなければ、そこに付け入るスキがあったと思います。

 

 とはいえソフトバンクの巨人対策は万全でした。中でも岡本和真への徹底したインコース攻め。昨季のシリーズでは坂本勇人に対し、同じようにインコースを攻めて封じましたが、その延長線上にある攻め方でした。岡本のインコースを攻める一方で、坂本に対しては一転して勝負はアウトコース。キャッチャー甲斐拓也の頭には「坂本は去年を踏まえてインコースを読んでくる」との確信があったんでしょう。対照的な攻めで主軸を封じた甲斐のリードも見事でした。

 

 それにしても巨人は13年の第7戦からこれでシリーズ9連敗です。これは結構、衝撃的な結果ですよ。各方面からDHがどうした、さらにOBからは「ヘッドコーチなど組閣に問題がある」など厳しい意見も出ています。どんなに強いチームでもシーズン中に4連敗することはあります。勢いの差、戦略の差など敗因は様々ですが、「常勝」を義務付けられた巨人においては、リーグ優勝をしても日本シリーズで負けたらすべてがなかったことになる。こうした厳しい環境が巨人の強さを作り上げてきた。その意味ではもっと厳しい意見と向き合う、もっと叩かれることも必要じゃないかと思います。

 

 果たしてソフトバンクとの差はDH制だけなのか? 育成選手が主力として育っている原因は何なのか? FAや外国人選手で弱点を補強するのも即効性があり否定はしませんが、ドラフト戦略を含め、体制をもう一度見直す必要があります。私はソフトバンクでコーチを務めたこともありますが、あのとき王貞治会長とは顔を合わせるたびに「鈴木、若い選手を育ててくれよ!」と力強く言われたものです。というか、それしか言われませんでした。

 

 王さんをはじめとしてホークスのトップの頭の中には、強いチームの明確な未来図があって、それに向けて何をして、何をつくり、どういう人材を持ってくるかを考えていた。その結果が、4年連続日本一とに結びついたのでしょう。

 

 あとは選手の意識の差もあるのかもしれません。周東佑京が「僕程度の選手はいくらでも代わりがいるんです」と発言していたのを新聞で見ましたが、これこそがソフトバンクの強さの秘密なんだろうな、と思いました。

 

 広島と巨人で日本シリーズの"負け組"になった丸佳浩などは、この悔しさを来季にぶつけてもらいたいものです。

 

 話題は変わって、契約更改の思い出を。天理高校から巨人に入り、巨人には7年間いましたが、5年目に寮を出て神田で暮らし始めました。この場所は首都高速・神田橋インターのすぐ近くで、読売新聞本社とは目と鼻の先。契約更改の場は読売本社ですから、「もう何回でも保留して、何回でも行ってやらあ」と気合が入ったものです。まあ、「もっと上げてくれ」という材料もなかったので、結局、一度も保留することはありませんでしたけどね(笑)。それは西武、中日時代も一緒でした。

 

 一度、契約更改で保留したのが、92年オフ、現役引退後、初のコーチになるときでした。西武・森祇晶監督から「康友、お前、指導者になれ。コーチをやれ。会社には年俸も選手時代と同じでと言ってあるから」と言われ、それでいざ契約の場へ。当時、球団事務所は池袋のサンシャイン60にあって、部屋に入ると立派な額に入った「打倒巨人」と書かれた書がどーんと飾られていました。「おお、巨人以外の球団はこういう気持ちでいるのか」と妙に感心したものです。

 

 で、コーチ就任の契約ですが、提示された金額が森さんの話とは違い、選手時代よりも低くなっていた。「これじゃ話が違います」と保留して、4度ほど交渉しました。最後は向こうが「じゃあ、もうこの話はなかったことに。森さんに電話しますから」と言い出して、「それはちょっと」ということで契約しました。まあ93年、94年と連続リーグ優勝を果たし、それでコーチである私の年俸もアップしたので良かったですけどね。

 

 当時はコーチの年俸も勝てばアップ、負ければダウンという契約でした。それが私の経験では近年はインセンティブ契約が多くなってきました。楽天などはそうでしたね。とはいえ契約更改のこの時期というのはイヤなものですよ。肩たたきの時期でもありますから「今年は大丈夫かな」とビクビクして過ごした年もありましたね。

 

 さて、今年はコロナ禍で連載中断もありましたが、1年間、康友コラムをご愛読いただきありがとうございました。来季は143試合が無事開催できるように、そして東京五輪パラリンピックも開催されるように祈っています。また来年も私の球論をよろしくお願いいたします。では、皆様、よいお年を!

 

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2020年東京五輪(1年延期)の聖火ランナー(奈良県)でもある。


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