2006年4月9日。
 東京六大学春季リーグ戦第1週。
 法政大学対東京大学2回戦。
 法大2年の小松剛は初めて学生野球の聖地・神宮球場のマウンドに立っていた。彼にとっては記念すべきデビュー戦。だが、不思議と緊張感はなかった。ただあったのは「神宮で投げられる」という喜びだけだった。

「カーン!」
 渇いた打球音が鳴り響き、白球が小松のはるか頭上を越えてレフトスタンドへと消えていった。打たれた瞬間、それとわかるホームラン。初回に味方打線からもらった3点のリードはこの東大の5番打者の3ランであっという間に帳消しとなった。

「打たれたボールは外のちょっと高めのストレート。油断したつもりはなかったんですけど……。ランナーを出しても、オープン戦では抑えていたので、プレッシャーは感じませんでした。『いつも通りにいこう』。そう思って投げたんです」
 1回裏、3−3。試合は早くも振り出しに戻った。

 デビュー戦で、しかも初回に一発を見舞われれば、慌ててしまうのが普通だろう。ところが、小松は至って冷静だった。
「打たれてしまったものは仕方ない。切り替えていこう」
 そう自分に言い聞かせ、小松は2回以降、1安打も許さないパーフェクトピッチングで東大打線を翻弄した。チームも毎回の23安打、最終回にはリーグ最多タイの7者連続安打を記録するなど打線が爆発。終わってみれば、19−3の圧勝だった。
 小松は7回4安打3失点でデビュー戦を白星で飾った。

 それは1年前、当時1年生だった小松からは想像もできないことだった――。

 “華”の六大学野球へ

 高校3年の夏の地方大会を終え、“高校野球”に別れを告げた小松は、次なるステージを大学へと求めた。高知県出身の小松は関西の強豪、龍谷大学か京都産業大学の進学を考えていた。当時の彼には“東京”という2文字は全くなかった。

 しかし、室戸高校時代、小松を3年間指導してきた横川恒雄監督の考えは違っていた。横川監督は法大出身で、現在の法大野球部・金光興二監督や江川卓(元巨人)が1年生だった時の4年生にあたる。そんな横川監督にとって六大学はやはり学生野球の“華”という思いがある。それだけに学生野球の聖地・神宮球場のマウンドに小松を立たせたかった。いや、それだけの素質を持った選手だと思っていた。

「今すぐには活躍できなくても、将来性は十分にある。だから上のレベルに行かせたい、いえ行かせなくてはいけない選手だと。今、小松を六大学に行かせなければ、もうこれほどの選手は出てこないかもしれない。当時の私にはそんな思いがあったんです」

 そんな恩師の強い希望もあり、小松は法大野球部のセレクションを受けることとなった。 セレクションには投手だけでも約30人と、全国から数多くの優秀な選手たちが集まっていた。甲子園経験者も多く、小松にとってはテレビで観たことのある選手ばかりがズラリと顔を揃えていた。

「彼らを見て、『やっぱりレベルが違うなぁ』と思いましたね。体格も違うし、球も速い。全国のトップレベルのチームの中のトップ選手が来るんですから、そりゃ、すごかったですよ。正直『大丈夫かな……』と思いました」

 しかし、そこで怯むような小松ではなかった。セレクションでは「受けるからには負けたくない」と、とにかく自分の持っている力を全部出し切った。
「自分のボールが一番よかったんじゃないかな」
 セレクション後、小松は自分のピッチングに最高の評価を下していた。

 2004年12月18日、野球部推薦入学合格者が発表された。投手の合格者はわずか4人。その中に「小松剛」の名があった。見事、狭き門をくぐり抜け、名実ともに全国トップクラスの野球部の一員となった小松。室戸高校からは初めての六大学野球入りとなった。

 だが、小松に不安がなかったわけではなかった。
「東京を含めて関東なんて修学旅行で行ったくらいで、右も左もわからなかった。とにかく、『こんな都会で生きていけるかな』と思いましたね。大学の勉強もちゃんとついていけるのかどうかも心配でした。野球のことを考える前に、まず生活していけるかどうかの方が不安だったんです」

 しかし、地方から上京した多くの人たちがそうであったように、小松は東京での生活や大学の勉強にも徐々に順応していった。いつしか不安は消え去り、大学生活の方ではほとんど悩むことはなかった。

 一方、野球の方はというと、高校までとのあまりのレベル差に困惑していた。先輩投手のボールはスピード、キレ、勢い、その全てが自分のとは比べものにならなかった。
「ここでレギュラーなんて、絶対無理や」
 4年間、ブルペンピッチャーとしての自分しか想像することができなかった。

 さらに、小松は右ヒジを痛めていた。高校時代からのもので、最後の夏の大会では痛みはひいていたものの、大学入学後、再び痛み始めたのだ。このままでは思いっきり投げることさえもできない。4年間、中途半端で終わるのだけは嫌だった。
 5月、小松は右ヒジにメスを入れることを決意した。

 初完投&胴上げ投手

 手術後、小松を待っていたのは苦しいリハビリ生活の日々だった。3、4カ月間、野球どころか、ボールを投げることもできず、やれることといったら走ることだけだった。
 しかし、この苦しい状況が小松の迷いを断ち切らせ、強靭な精神力と自信を身につけさせたのである。

「手術したことで、ある意味、気持ちが吹っ切れたんです。だって入学早々、先輩たちにはレベルの差をまざまざと見せつけられ、挙句の果てには手術して投げることもできない。もう言ったら絶望的な状況ですよ。
 でも、それで逆に『もうやるしかないな』と思ったんですよね。まずはリハビリしてヒジを治して、全力で投げられるようになろうと。それでもダメだったら、もう辞めたらえぇやん、と。失うものはなんもないやんかって、そんなふうに思えたんです」

 それから小松はひたすら走り続けた。そして先輩投手のピッチングをこっそり見に行っては、目でその技術を盗んだ。
「必ず自分も神宮のマウンドに立つ」
 ピッチング再開後も、その思いを胸に秘め、練習に明け暮れた。

 1年間の努力は翌年、早くも実り始めた。小松は2年生になるとオープン戦で3年生エース平野貴(日立製作所)とともに先発を任せられるようになった。そして4月9日、ついにリーグ戦初登板を果たし、念願の神宮のマウンドに立ったのである。

 リハビリ期間中に懸命に取り組んだ走り込みの賜物だろう。入学当初、最速141キロだったストレートのスピードは、この試合、145キロを記録した。

 その後、小松は4試合を投げ、1勝0敗。チームも前年の秋に続く連覇に向けて優勝争いを演じていた。
 迎えた5月20日。第7週、明治大学戦1回戦。
 エース平野が11安打と打ち込まれたが、打線の援護もあって完投勝利を収めた。これで法大は優勝に王手をかけた。

 試合後、小松は監督室に呼ばれた。
「明日はお前でいくぞ」
 いつも通りの言葉だった。

 翌日、明大戦2回戦が行なわれた。優勝がかかった大一番。この時もまた、小松は冷静だった。
「前日、キャッチャーの渡辺(哲郎)さんが『“優勝”という言葉を頭から外してみろ。そしたら普通の明治戦やから』と言ってくれたんです。そしたら、すごく楽になれました。当日のマウンドでも『これはただの明治の2回戦や』と思いながら投げました」

 小松は7回まで明治打線を1失点に抑える好投を披露した。打線も確実に点を重ね、7回が終わった時点で5−1と法大が4点をリードしていた。
「お前、まだいけるか」
 7回を投げ終え、ベンチに戻ると金光監督からそう声を掛けられた。小松は即座に「はい、いけます」と答えた。

 それまでの試合ではほとんど8回に2番手投手にマウンドを譲っていた小松だったが、前日の試合でエースの平野が完投していることもあり、この試合は投げ切るつもりでいたのだ。果たして金光監督が出した答えは――“小松、続投”。

 そして迎えた最終回、秋春連覇まであとアウト一つに迫った。最後の打者の打球は小松の右横を転がり、ショートへ。キャプテンの大引啓次(現オリックス)が難なくさばいたボールがファーストミットに収まり、法大の通算42度目の優勝が決まった。

 するとその瞬間、突然周りの動きがスローモーションになり、音が消えた。喜び勇んでマウンドに掛けて来るチームメイトの声も、スタンドの歓声も全く小松には聞こえていなかった。見ると、苦楽を共にしたキャッチャーの渡辺(トヨタ自動車)がゆっくりと自分の方を目がけて駆けてくる。

「ドサッドサッ」
「ワーッ」
 チームメイトが次々と覆いかぶさってきた瞬間、ようやく動きも音も正常に戻った。小松は皆の下敷きになりながらも、喜びを噛み締めていた。

「大学に入って初めての完投勝利。しかも胴上げ投手にまでなってしまって、もう本当に貴重な体験をさせてもらいました。(優勝した瞬間にマウンドにいられるのは)六大学でも年間でたったの2人ですからね。すごく嬉しかったですよ」

 この年の春季リーグ、小松は6試合に登板し、3勝0敗。防御率は当時早稲田の2枚看板だった大谷智久(トヨタ自動車)、宮本賢(北海道日本ハム)に次ぐ1.80。さらに三振は40イニングを投げて40個と申し分ない成績を収めた。
 この時の好調の理由を小松は次のように語った。

「あの時はハングリー精神というか、チャレンジャー精神というものが強かったと思います。相手にくってかかるという姿勢が成績にも表れたのではないでしょうか。実績がなかったので、変なプレッシャーも感じずにいられましたしね。『オレが打たれても、誰も文句いわんやろ』と。失うものは何もなかったので、怖がらずに思いっきり投げることができました」

 先輩との力量の差に打ちのめされ、挙句の果てにはリハビリで投げることすらできなかった1年前の日々。小松を支えたのは、それを乗り越え、自分を精一杯追い込んでやってきた、という自負心だった。

 目覚ましい活躍を見せた2年の春以来、小松はプロのスカウトからも注目されるようになった。現在では、2008年秋のドラフトでの上位指名候補にも名を連ねている。プロ入りは、もはや“はかない夢”ではなく、確固たる“目標”となった。
 小松は“絶望”を自らの力で “希望”に変えたのである。

(第2回へつづく)


<小松剛(こまつ・たけし)プロフィール>
1986年9月26日、高知県高知市出身。小学3年に室戸市に転居し、友人の影響で野球を始める。小学5年から投手となり、高校は地元の室戸高校に進学。3年時にはエースで主将を務める。法政大学では2年春にリーグ戦デビューを果たすと、3勝をマーク。優勝のかかった大一番にはリーグ戦初完投で胴上げ投手となった。リーグ戦通算8勝9敗。今秋ドラフトの上位指名候補選手としてプロからも注目されている。180センチ、80キロ。右投右打。











(斎藤寿子)
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