カープ創設初シーズンとなる昭和25年のこと。開幕戦に向け、カープ打撃陣は好調と見られていた。前回も述べたように紅白戦はいつも派手な打撃戦となり、ファンも喜ぶばかりであった。しかし、実情は少しばかり違っていた。

 

 野球の勝敗に及ぼすウエイトが高いのは投手陣であり、その投手陣に不安を抱えていたため、結果的に紅白戦で打線の活躍が目立ったのだ。古い資料をあたると、そのことをズバリ指摘する記事があった。


<投手陣がやや手薄>(中国新聞「広島カープ十年史」昭和34年12月16日)

 

 そんな弱投のカープに救世主が現れる。細身で小柄、弱冠19歳の青年、ノンプロからやってきた長谷川良平である。

 

"初代エース"のお披露目

 長谷川の初登板は意外と早く訪れた。昭和25年2月26日。この日、カープは創設以来初の対外試合となる松竹ロビンスとのオープン戦を実施した。その二軍戦だった。ロビンスは奇しくも初代監督・石本秀一が前年に大陽ロビンスの監督として鍛えたチームである。

 

 当時の中国新聞の見出しには、<カープ対ロビンス、初の公開試合>(中国新聞・昭和25年2月27日)とあった。後年、「小さな大投手」と呼ばれる長谷川であるが、この日が彼のプロ野球人生の始まりであった。

 

 立ち上がりの1回表、長谷川はあっさりと2点を献上した。これは入団テスト後に一度、郷里の愛知県半田市に帰省していたことによる練習不足が原因だった。だが、カープがその裏、すぐに反撃し同点とすると、長谷川のピッチングにもスイッチが入った。

 

<長谷川も、二回からは見違えるばかりの好投をみせはじめた>(中国新聞「広島カープ十年史」昭和34年12月18日)

 

 さらに打線も好調で、2回裏には1点を加えて逆転し、長谷川を援護した。

 

 長谷川の投球フォームは一風変わっていた。サイドスロー(当時の記述にはアンダースローもあり)だが、マウンドで軸足を蹴り上げるかのようにひょいっと飛び上がり、重力の加速で沈み込んだ後、そのまま右腕をテイクバックし、その勢いを活かして、腕に遠心力をかけるかのように大きく振る。重力、遠心力をうまく使って、スピードとキレを生み出していた。

 

 好投の長谷川は2回以降、6回まで松竹に得点を許さず、カープが1点のリードを保った。だが、「これではいかん」と松竹の一番・小林章良が奮起。この日、2本目のツーベースを放ち同点とした。しかし、その裏、カープも、連続ツーベースで1点を勝ち越し。カープ最初の対外試合は二軍戦ながら、双方譲らないシーソーゲームで大いに盛り上がった。

 

<「あれなら一軍で十分投げれるぞ、二軍で投げさすのはもったいない……」>(「広島カープ十年史」昭和34年12月18日)との声がスタンドのあちこちからあがっていた。戦前から中等野球で盛り上がった広島の地にできた球団とあって、目の肥えたファンが多かったが、長谷川の投球は彼らを釘付けにするほどだった。

 

 試合はカープがリードのまま迎えた9回表、松竹のクリーンアップ井上嘉弘にタイムリーを打たれ、結局、4対4で引き分けた。長谷川は4点を取られたものの、9回を1人で投げ切った。新人投手のお披露目としては最高の舞台となり、後々まで話題を独占した。

 

 地元紙には<弱冠十九歳の広島長谷川投手はインシュートと小さく曲がるカーブで松竹打線を押さえて善投>(「中国新聞」昭和25年2月27日)と報じられた。

 

 なおこの後に行われたカープ対松竹の一軍オープン戦は、後に水爆打線と呼ばれる松竹の強打者、金山次郎、三村勲、小鶴誠、岩本義行、大岡虎雄らが登場し、1万5000人あまりのファンを沸かせた。カープは善戦したものの1対2で惜敗。このこともあり2軍戦で好投を見せた長谷川の右腕に注目が集まった。

 

 長谷川を襲った悲劇

 この年からプロ野球のチーム数は、前年までの8チームから15チームに増え、セ・パ2リーグに分かれた。かつての同士も袂を分かち、リーグ戦に突入することになる。2リーグ制のスタートを勢いづける催しとして、セ、パ両リーグのトーナメント戦が開幕前に組まれた。春の野球祭と称されたセントラルリーグトーナメント戦は甲子園球場で行われ、大阪市長杯とされた。

 

 3月2日正午、セントラル8球団で、入場行進の予行演習を行った後、大阪市内を街宣車とバスに乗って堂々のパレードを行った。ファンたちは胸躍らせ、街中あちこちで、歓声があがり、手を振り、拍手を送った。

 

 在阪球団ではないカープにとって、大阪は完全なる異郷の地、今で言えばアウェーである。パレードでカープ選手の乗ったバスが通っても、なかなか盛り上がりは予想できない。だが、「選手らに寂しい思いをさせてはいかん」と、張り切ったのが中国新聞の大阪支社の社員であった。

 

 カープの選手が乗ったバスが通りかかると「さあ、来たぞ」とばかりに大きな鯉のぼりと大旗が振られた。「さあ、頑張れよー」とばかりの大声援である。この時の様子を資料から読む。

 

<広島カープ軍選手たちは、本社大阪支社前で、二丈ばかりの大鯉のぼりが、春風にはためき、歓迎広島カープの旗を見て大喜び>(「中国新聞」昭和25年3月3日)

 

 パレードの後、夜は松竹座で前夜祭が行われた。スター選手探しに始まり、選手1分間インタビュー、かくし芸、各球団代表選手からファンに向けてサインボールの投げ込みなど大いに盛り上がり、会場からは歓声に包まれていた。

 

 この前夜祭でひと際目をひいたカープの選手がいた。肝っ玉投手として知られる武智修であった。武智はいかなる場面で登板しても動じない度胸の良さをステージでも発揮し、マイクを握り、当時の流行歌「小判鮫の唄」を熱唱した。

 

♪ かけた情が いつわりならば ♪
♪ なんで濡れよか 男の胸が ♪

 

 見事に歌いあげた武智には会場から喝采が浴びせられた。中国新聞は<小畑実そこのけだとヤンヤの拍手を浴びた>(「中国新聞」(昭和25年3月3日)と、本家以上の歌いっぷりだったと報じた。

 

 前夜祭の翌々日の3月4日、カープ初の公式戦、トーナメント初戦は阪神との対戦だった。先発は前夜祭で熱唱した武智だった。

 

 身長170センチと小柄ながら、相手を見下すようなマウンド度胸と、右に左に曲がるくせ球で阪神打線を翻弄した。6回表のカープの攻撃を終わって、5対0でカープが大量リードした。

 

 この年の阪神は、セ・パ分立の際にパ・リーグの毎日新聞側を裏切り、セ・リーグに寝返った。この報復として毎日によって選手が大量に引き抜かれ、戦力ダウン。カープに苦戦したのにはこうした背景があった。

 

 カープ、初勝利か!? だが、6回裏から突如、猛虎打線が爆発した。カープのエラーにつけこみ、長短の連続ヒットで、3点をあげ、流れを一気に引き寄せた。8回裏、櫟信平のホームランで1点差。9回裏、後藤次男のホームランで追いつき、10回裏には、当たっていた櫟、西江一郎と連続のツーベースでサヨナラ。流れを取り戻せなかったカープは敗戦を喫した。新球団にとってほろ苦い船出となった。

 

 初代エースと呼ばれることになる長谷川に話を戻せば、実はこの試合前、長谷川の元に一通の電報が届いていた。

 

「チチ、キトク、ハハ」

 

 19歳の長谷川はショックを受けながらも監督の石本に報告。すると石本はこう言った。

 

「ほうか。試合が終わったらすぐ帰ったらエエ」

 

 プロ選手としての生き方

 このやりとりは、拙著「日本野球を創った男--石本秀一伝」(講談社)に詳述してある。

 

 追いすがる阪神打線に、投手交代の場面があるにはあった。しかし、この日の長谷川は登板がなかったのだ。

 ピッチャー交代、竹村元雄--。
 長谷川にとっては、言葉にできないほどの揺れる精神状態の中で、ただただ試合を見守り、試合終了後に、故郷、愛知県半田市に向かった。
 母から告げられた一言は、
「たった今、亡くなったのよ」
「……」
 長谷川は言葉がなかったという。
 しかし、この壮絶ともいえる経験は後々まで長谷川自身に残った。
 プロ生活の船出にあたり、父が亡くなったことから教訓を得たことは大きかった。当時、打てない、守れないカープの選手らの中で、芯の強い、頑強なる精神力を身につけることができ、投手として息の長い選手として、成長できたのか、長谷川の息子、純氏の証言から、明白である。
「石本さんの判断を決して恨んではいないと思います。あのことがあったから、頑張れた。プロとはそうなんじゃ、親の死に目にも会えん。そんなもん。戦う者の本来の姿を受け止めたと聞きました」
(「日本野球を創った男--石本秀一伝」講談社より)

 

 石本も長い野球人生の中で長谷川と同じような経験をしている。

 

 話は石本が中等野球の監督をしていた昭和8年にまでさかのぼる。毎日新聞社の記者をしていた関係で、石本は大阪の毎日新聞本社を介して、奈良県郡山中学の監督を頼まれ、夏の大会前に短期間のコーチをしたことがある。

 

 このことをカープ創設初年度、昭和25年1月1日付の新聞記事が伝えていた。

 

 甲子園出場が悲願であった郡山中学だが、和歌山県の海南中がいつもそれを阻んでいた。その宿敵を石本率いる郡山中学が倒し、甲子園出場を決めたときのことだ。前日、石本は祖母危篤の知らせを受けていたのだ。

 

<過去十九年間一度として勝ったことのない和歌山県勢まで倒して、甲子園出場となったわけだ、海南との優勝戦の前日、郷里から祖母危篤の電報が飛び込んだがとうとう帰れず試合終了と同時に用意された自動車に飛び乗りはしたものの群衆が取り囲んで一歩も動けず、帰った時にはすでに亡くなっていたので余計あの折のことは忘れられないね>(「中国新聞」(昭和25年1月1日)

 

 孫として祖母をみとるのではなく、監督として優勝を見届けた石本の心中、その辛さはどれほどのものだったか。石本の真意は今となっては聞くことはできないが、そこから得たものは少なくなかったであろう。石本は自らの経験から、プロ1年生の長谷川に何かを伝えようとしたのではないか。そう想像は膨らむばかりである。

 

 さて、カープにとって最初のシーズン。辛い球春を迎えた長谷川であるが、さらにシーズンに突入し、カープの選手が数々の苦境に襲われ、それを乗り越えていくという茨の道が待ち受けている。初年度、当時の広島の復興物語にも重なるであろう、次回は壮絶なシーズンの物語が開幕する。乞うご期待。(つづく)

 

【参考文献】 「カープ 苦難を乗りこえた男たちの軌跡」駒沢悟監修・松永郁子著(宝島社)、「中国新聞」(昭和25年2月27日、3月2日、3日、4日、5日)、「広島カープ十年史」(中国新聞連載・昭和34年12月16日、18日)、「日本野球を創った男--石本秀一伝」(講談社)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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