日本に初めてプロ野球球団『大日本東京野球倶楽部』が創設されたのは1934年12月26日のことだ。メジャーリーグ選抜チームを迎え討つための全日本代表チームが母体となっていた。旗振り役となったのが読売新聞社社長の正力松太郎である。

 

<この原稿は2021年1月発売の『CARP HISTORY BOOK1950-2020 広島東洋カープ栄光の軌跡』(ぴあ)に掲載されたものです>

 

 その余勢を駆って1936年2月には大日本東京野球倶楽部(巨人)、大阪野球倶楽部(タイガース)、名古屋野球倶楽部(名古屋金鯱)、東京野球協会(セネタース)、大日本野球連盟名古屋協会(名古屋)、大日本野球連盟東京協会(大東京)、大阪阪急野球協会(阪急)の7球団からなる日本職業野球連盟が旗揚げされた。

 

 その13年後の1949年4月15日、日本プロ野球連盟総裁に就任していた正力は、プロ野球の2リーグ化を提唱する。正力の2リーグ案は、既存の8球団に新設の4球団を加えて12球団にした上で、これを2つに分けるというものだった。

 

 正力のエクスパンション計画は広島にも飛び火した。リーグ総務の赤嶺昌志が、広島県出身で、かつて名古屋金鯱軍の理事を務めていた山口勲に「2リーグ分立を機会に、野球王国でたくさんの名選手を出している広島に、プロチームを作ってはどうか」とすすめたのである。

 

 山口は球団創設の話を、広島の有力者である谷川昇に持ちかけた。谷川は西志和村の出身。戦時中は内務官僚の要職にあったが、戦後は公職を追放されていた。

 

 山口と谷川の2人は地元マスコミの支持を取り付けるため、地元紙・中国新聞の東京支社を訪ねた。協力を約束したのが通信部長の河口豪である。

 

 その席で谷川は河口に「企業の宣伝隊でなく、土の利、人の利で支えていく球団をつくりたい」と語った。これが球団創設にあたり、谷川が描いたコンセプトだった。日本で初めてとなる『市民球団』への青写真だったと言ってもいいだろう。

 

 だが資金集めは難航した。当初の株式公募は1950年4月25日までだったが、株式会社広島野球倶楽部創立準備委員会は証券取引委員会あてに有価証券募集変更通知書を提出し、期日を5月20日までに変更した。4月末までに集まったのは、わずか600万円だった。大口の対象だった県・各市は年度末で出資の議決に間に合わず、選手獲得もままならなかった。

 

 また当時のプロ野球には『7対3ルール』なるものが存在していた。試合収入は勝者が7、敗者が3の比率で分けられていた。そのため弱いカープは十分な収入が見込めなかった。

 

 さらに言えば、オフシーズンは試合がないため、球団は無収入となる。連盟への加盟・分担金が払えず、選手の給料も5月から滞った。

 

 そこで飛び出したのが大洋ホエールズとの合併話である。合併といっても、広島は吸収される側だ。

 

(後編につづく)

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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