1999年8月22日、有明コロシアム。
 弱冠21歳のノブは『K-1ジャパンGP』で衝撃的なK-1デビューを果たした。一回戦で宮本正明から2ノックダウンを奪って1ラウンドKO勝ちを収めると、二回戦では中井一成を開始わずか52秒でマットへ沈めた。準決勝では優勝候補の中迫剛をパワーで圧倒して判定勝ち。決勝では武蔵に判定負けしたものの、「逆輸入ファイター」の異名を日本中に轟かせた。

 ノブは当時をこう振り返る。
「今のジャパンGPは8人で行われていますが、当時は16人のトーナメントだった。ヘビー級の日本人なんて16人もそう簡単に見つからない。だから、大会の開催が発表された時には、自分にオファーが来るという予感がありました。実際にオファーが来た時には驚きませんでしたが、念願のK-1でしたから、やっぱり嬉しかったですね。
 (大会では)まさか決勝まで進出できるなんて思いませんでした。僕はキックボクシングの試合をたった2試合しかやっていなかった。全ての選手に胸を借りるつもりで大会に臨んだんです。一回戦で勝った時に『これはいけるかな』と感じたけれど、それでも決勝にいけるとは思わなかった。中迫さんが勝ちあがってくるのはわかっていたので、『そこまではいけるかな』と」

 大会で準優勝という結果を残したとはいえ、ノブの胸中には一抹の不安があった。
「(K-1デビューが)2、3年早かったというのはありましたね。チャクリキに入門して1年が経っていたのですが、ビザの関係で日本に帰国しなければいけなかったので、実際にオランダでキックボクシングのトレーニングを積めたのは6ヶ月程度だったんです。
 そうなると試合勘、経験が絶対的に足りない。相手がこうきたら、こうしようと試合中に柔軟な対応ができないんですよ。自分のスタイルを押し通すことしかできない。それがうまくいけばいいのですが、そうじゃなかったら……」

 しかし、念願のK-1の舞台へ上がれる喜びも当然大きかった。次々と組まれていく強豪選手との戦いにノブは身を投じていった。

<構えた瞬間に強さがわかったアーツ>

 これまでの格闘技人生において、最も印象深い試合は二つある。一つ目は「今まで一番強かった相手」というピーター・アーツとの対戦(01年4月25日)だ。5ラウンドまで粘ったものの、最終的にローキックでKO負けを喫した。

 ノブはアーツ戦をこう振り返る。
「最初にアーツが構えた瞬間、『うわっ』と思いましたね。『これは強いな』と。雰囲気がありましたね。
 勝つ時って試合中は何も考えないんです。でも、あの時は色々考えていた。『コイツは強いな。どうすればいいんかな』と。あんなに考えたことは今までなかった。
 アーツは昔から好きな選手で憧れもありました。『アーツは強いもの』と自分が作り上げていたのかもしれない。だから、試合が終わって悔しかったですよね。何より気持ちで負けていたことが悔しかった」

<アンディともう一度戦いたかった>

 そしてもう一つの試合が、00年7月7日の故アンディ・フグのラストマッチである。99年の『K-1ジャパンGP』で準優勝したノブは同年10月の開幕戦の出場権を得ていたが、あばら骨を骨折して棄権。その開幕戦で対戦する予定だったのがアンディだった。

「開幕戦で戦えなかったのですが、翌年、対戦が実現したので『ラッキーやな』と思いましたね。そして、いざ戦ってみると、『勝てる』と思ったんです。拳を合わせた瞬間に『これはいけるんちゃうか』と。
 結果的に1ラウンドでKO負けしたのですが、こめかみを途中で深く切ったのが響いた。いつドクターストップになってもおかしくはない状態だったんです。それで『もう倒しにいかないと』と前に出たところでやられた。だから、もうちょっといい試合できたんちゃうかとは思います。そのくらい、当時のアンディに対して怖さは感じなかった。ただ、カウンターをとるのは滅法うまかったですね」

 訃報を耳にしたのは、拳を交えてわずか2ヵ月後の8月24日のことだった。アンディとの対戦後、実家で静養したノブはオランダに発つべく、徳島空港から羽田空港へ到着した。その飛行機から降りる際、機内のテレビでアンディの試合映像が流れていた。ノブは最初、『何でアンディの試合をやっとるんやろう』と不思議に思っていた。

「(訃報は)本当に急な話でビックリしました。戦った後、一度会っているんです。7月30日に名古屋で同門のロイド・ヴァン・ダムの試合があったので、僕も応援で行った。そこでアンディと会って色々な話をしていたんです。その後で彼が入院したというのは聞いていた。でも、入院したといっても、まさか死にいたるような病とは思っていませんでした」

 飛行機から降りたノブはいてもたってもいられず、その足でアンディの下へ向かった。そして、正道会館の東京本部でアンディの遺体と対面した。

 ノブはアンディへの思いを次のように語る。
「(アンディとは)もう一回試合をしたかったですよね。(アンディの死後)自分がもっともっと頑張らなければいけないと思う気持ちが強くなりました。格闘技の世界で確固たる記(しるし)を残していかねばならないとね」
 アンディと最後に拳を交えた記憶――それはノブの中にはっきりと刻まれている。

(最終回に続く)

<ノブ ハヤシ プロフィール>
本名は林伸樹(はやし・のぶき)。1978年4月27日生まれ。徳島県徳島市出身。高校卒業後、単身でオランダへ渡り、名門ドージョーチャクリキの門を叩く。K-1デビューの1999年ジャパングランプリで準優勝。04年にも同グランプリで決勝進出を果たす。同年、チャクリキのオランダ以外の初の支部であるチャクリキ・ジャパンをオープン。同ジムの総本部館長を務める。戦績は34戦15勝17敗1分7KO(1ノーコンテスト)。190センチ、110キロ。








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