高校卒業後、ノブは様々な格闘技団体から引く手数多だった。空手・極真会館の松井章圭館長、正道会館の角田信朗最高師範から直々に誘われ、リングス、新日本プロレスからも勧誘を受けた。しかし、「自分はキックボクシングをやりたい」と固辞した。


 そして、オランダ行きを心に決めていた。
「空手をやっている時期から高校を卒業したら、オランダに渡ろうと思っていたんです。何故オランダか? その頃のK-1王者はアーネスト・ホースト、ピーター・アーツとオランダ人でしょう。キックボクシング界で一番強いオランダに行って、自分を試したかった」
 それはオランダに骨を埋める覚悟というよりも、自らをテストするという意味合いが強かったという。
「オランダで『自分は通用する。大丈夫だ』と手応えを感じることができれば、帰国してキックボクシングを続けようと。『駄目だ』と思ったら、辞めようと決めていましたね」

 98年夏、1年間のアルバイト生活を経て、ノブはオランダへ渡る。
 当初の計画は3ヶ月間で当時のオランダ3大ジムであるドージョーチャクリキ、メジロジム、ボスジムのそれぞれに1ヶ月ずつ滞在するというものだった。あくまで自分の力量を測ることが目的で、オランダのジムに所属するつもりは全くなかった。アルバイトで資金を貯めたとはいえ、当然、金銭的に余裕があるわけではない。日蘭の往復切符に加え、3ヶ月分の生活費が手元にあるだけだった。

 最初に門を叩いたのは、ドージョーチャクリキ。知人がトム・ハーリック会長と仲がよかったこともあり、ジムが住居を提供してくれるという。それが慣れない異国で生活するノブには助かった。
渡蘭初日はアマチュアクラスで練習した。静かな立ち上がりだった。
「初日は月謝を払っている練習生とまじって、ワンツーとかやっていましたね。『こんなもんか、最初はそうやろうな』と思っていました」
 
 しかし、2日目に異国の地の洗礼を受ける。プロのクラスに放り込まれ、ジムに所属する現役プロ選手とのスパーリングを組まれたのだ。しかもラウンドごとに次々と対戦相手が入れ替わった。ノブは97年夏にK-1選手のモーリス・スミス氏のジムで1ヶ月間、キックボクシングのトレーニングを積んでいるが、「初歩の初歩をかじっただけ」という。KOは免れたが、立っているだけで精一杯だった。

「いきなり試されましたね。『お前、どんな感じやねん』と。強さを体で見せてみろと。チャクリキって、他所(よそ)から初めて来た人に対して、『自分たちは強い』と思わせるために本気でやるんです。だから、『こいつは弱いから、やさしくしたれよ』みたいなのはない。スパーリング中は、自分が何をしているのか全くわかりませんでした。
 後で聞いてみると、その時に戦った選手は欧州王者や、次にK-1に出る選手など強豪ばかりだった。1人目なんて、ロイド・ヴァン・ダム(99年6月にK-1デビュー)でしたからね。
 当然、終わってから『ここでやっていける』とは思えませんでした。しかし、『次のジムに移るまでの1ヶ月間だけ頑張ってみよう』と」

 それから1ヶ月間、ノブはチャクリキで必死にトレーニングをこなした。
 異国の環境に戸惑うところもあった。当時は英語もオランダ語も話せない。ジェスチャーで相手とコミュニケーションをとるしかなかった。加えて、最初はベッドを置くだけが精一杯の狭いマッサージルームに寝泊りしていた。その部屋は常に暖房が入っていて、夏は暑くて息苦しい。運河が近く、蚊にも苦しんだ。
 しかし、キックボクシングに深く打ち込むことが、それらの苦労を忘れさせた。「自分は鈍感なんですよ」とノブは豪快に言う。

 次のジムに移る期限の1ヶ月が近づいたところで、意外な形でデビュー戦が訪れる。
「若手が出るメジロジム主宰の大会で応援に行くと、たまたまチャクリキから出場する選手が出られなくなった。それでトムが僕に『お前、やってみないか。2分2ラウンドで最下級のクラスだったら、いけるんじゃないか』と。僕は言葉がわからないものだから、「OK、OK」と。チャクリキに入って本格的にキックボクシングをやって1ヶ月足らずだったし、ましてやオランダで試合をする気なんてなかったんですけどね」

 しかし、結果的に1ラウンドでKO勝ちを収める。この勝利をきっかけに、それまで練習生だったノブはチャクリキと正式に選手契約を交わす。
「僕は試合に負けたら、キックボクシングを辞める気だった。だって最下級のクラスでしょう。今K-1に出ている選手が、このクラスで負けるはずがない。これで勝てなくて、上にいけるはずがないだろうと。(選手契約は)力が認められたということでしょうね。金銭的に余裕がなかった時期だったので助かりました」

 1ヶ月間だけ過ごすつもりだったドージョーチャクリキでノブはプロキックボクサーとしての人生を歩み始まる。それから、『逆輸入戦士』として衝撃的なK-1参戦を果たすのは、わずか1年後のことである。

(第3回に続く)

<ノブ ハヤシ プロフィール>
本名は林伸樹(はやし・のぶき)。1978年4月27日生まれ。徳島県徳島市出身。高校卒業後、単身でオランダへ渡り、名門ドージョーチャクリキの門を叩く。K-1デビューの1999年ジャパングランプリで準優勝。04年にも同グランプリで決勝進出を果たす。同年、チャクリキのオランダ以外の初の支部であるチャクリキ・ジャパンをオープン。同ジムの総本部館長を務める。戦績は34戦15勝17敗1分7KO(1ノーコンテスト)。190センチ、110キロ。








◎バックナンバーはこちらから