今年で創設71年目、広島カープの歴史の起点は昭和25年である。戦後復興期真っただ中にあって、ないない尽くしの広島県民・市民の心を満たしたものは新球団カープであった。戦後の歩みを進める県民の唯一の心のともし火であり、原爆からの復興を目指す広島の人たちの生活の一部となっていく。そのカープがいよいよ結成最初のシーズンに臨むことになった。

 

 開幕戦、12本の長短打

 シーズン前の華やかなプレ行事・春の野球祭では、阪神に残念ながら逆転を負けを喫したが、気持ちをたて直し、3月10日からの開幕に向かってひた走っていった。

 

 当時の開幕は「開幕シリーズ」と銘うって、山口県の下関球場と、福岡県の平和台球場において、新生セントラルリーグ8球団の巨人、阪神、中日、松竹、大洋、西日本、広島、国鉄が勢ぞろいして火花を散らした。カープの記念すべき開幕戦は3月10日、平和台球場において西日本パイレーツとの対戦であった。

 

 この開幕シリーズでは翌11日に国鉄と対戦し、さらに12日は中日との試合が組まれていた。

 

 3月10日、カープ史の始まりは平和台球場におけるセ・リーグ8球団による入場行進だった。寒さが残る早春の1日だったが、なんとも華やかで晴れがましいシーンだった。近年のプロ野球において入場行進を見ることはなくなったが、この開幕シリーズでの入場行進はまるで高校野球の甲子園大会かのごとく、なんとも初々しいものであった。カープのプラカードも行進の足踏みで揺れながら堂々とお披露目された。

 

 原爆から復興を目指す広島の市民・県民にとって、なんとも誇らしい光景だったことは言うまでもない。

 

 さあ、開幕戦である。

 

 栄えあるカープの開幕投手を務めたのは、かつて名古屋金鯱軍のエースとして活躍した内藤幸三である。長い日本プロ野球史の中で、戦前の職業野球の初年度、昭和11年にはシーズン通算139個の三振を奪い初の奪三振王となった男である。年齢的にピークは過ぎ、球威こそ全盛期には及ばないものの、巧みな投球術でパイレーツ打線をかわした。

 

 記念すべきカープ初安打は初回であった。

 

<広島で最初の初安打を記録したのは二番の岩本(章)であった>(「中国新聞」広島カープ十年史・昭和34年12月24日)

 

 岩本章は高知県商業出身で、昭和13年に巨人軍に入団。「花の13年組」といわれ、かの川上哲治らと同期で巨人に入り、その後、名古屋軍、阪急らを移籍して、カープに入団した人物だ。

 

 その後、後続は倒れたが、試合が動いたのは、2回表、広島の攻撃からだ。

 

「新人の樋笠、荻本が長打を連ねて先取点をあげた」(「中国新聞」昭和25年3月11日)

 

 カープ史上初の得点である。打順は七番、八番と下位だったが、樋笠一夫が三塁打で出塁し、荻本伊三武の二塁打によってホームに帰ってきた。タイムリーヒットを打った荻本は石本秀一監督が昭和22年のシーズンに采配をふるった結城ブレーブス出身の選手である。

 

 荻本はカープの初年度限りで現役を退いているが、この開幕に照準を合わせ、体調を上げていくために節制をして臨んでいた。

 

<カープの荻本はよくなると思う。タバコまで止して張切っているから>(中国新聞・昭和25年3月10日)

 

 戦後間もなく娯楽の少ない時代、プロ野球選手らにとって、ものぐさに練習合間の一服は格別であったろう。そうしたわずかな楽しみをこらえて荻本は、開幕へ向けてコンディションを整えたのだ。記念すべき初打点をあげたことで節制の甲斐もあったというものだ。歴史に名前を刻んだ荻本の対戦した投手は、緒方俊明であった。

 

 さて試合はカープの優勢で進み、6回を終わって4対3とカープがリード。7回に両チーム1点ずつ加えて、5対4とカープがリードし初勝利へと邁進する。8回からは盤石の投手リレーをと、エース内藤から技巧派で肝っ玉投手の武智修にスイッチした。さあ、カープ初の1勝だと期待が膨らんだ。

 

 しかし、8回裏に野手が固くなったか、2つのエラーもあって、2失点。5対6、カープの初勝利は翌日以降に持ち越しとなった。

 

 ただし、このカープ初の試合。敗れたとはいえ、一方的な負けゲームというわけではない。毎回のようにチャンスを築き、あと一本が出なかった惜敗であった。

 

<八回を除き、十二本の長短打を毎回放ちながら第一戦を飾り得なかった>(中国新聞・昭和25年3月11日)

 

 球団1号は場外弾!?

 シーズン前に行われた紅白戦からの打撃好調を維持していたのだ。


 ただ、僅差の負けは、翌11日の国鉄戦に尾を引いた。2対3とあと一歩及ばず、連日1点差に泣いた。この日の国鉄の先発は高橋輝で、シュートが冴えた。彼にプロ初勝利を献上してしまったのである。

 

 いつもは暖かい福岡県の平和台球場だが、この日は<粉雪を交えた寒風という悪天候>(中国新聞・昭和25年3月12日)であったことも禍いした。好調なカープ打線も冷え込み、ヒット4本に抑えられ、まさにお寒い1日となった。

 

 翌12日のカープ第3戦は、中日戦だった。この日は、前日に完全に冷え切った打線から、目を奪われるほどの、快心の一撃が生まれた。

 

 初回の攻撃は、一番の田中成豪から。中日の先発・服部受弘から、2ボールの後の3球目を叩いた。

 

--あっと、田中の打球は伸びる、伸びる、伸びる。レフト方向にグングン伸びて、入った、入った、ホームラン。カープ記念すべき、チーム初のホームラン。田中が打ちました。--

 

 当然ながらテレビ中継はなかったが、もしあったとしたらこのような実況がゆうに想像できたシーンである。

 

 前日の粉雪からうってかわり、この日は強風模様。連日勝てぬカープに元寇の神風のごとく、レフト方向に強い風が吹き、田中の打球を後押した。レフトスタンドを超える120メートル弾であった。

 

 資料をあたる。

<廣島一番田中は中日エース服部投手の二つ目のボールの後、投げ込んだ高めの直球を叩けば、左翼線場外の四〇〇フィート(※121.92メートル)の大ホーマーとなり、カープ第一号を記録>(中国新聞・昭和25年3月13日)

 

 さらにある。
<白球は折からの風にのって、左翼場外へ。百二十メートルを超す本塁打となった>(読売新聞カープ十年史『球』昭和34年・第23回)

 

 この一打は、カープ球史に刻まれる記念すべき、第1号のホームランになるだけでなく、さらに先頭打者アーチとして、冠されるものでもあったのだ。田中成豪選手にとっても輝かしい記録となった。さあ、この日こそ、カープ初の勝利を――と勢いがつくはずであった。

 

 だが、うまくことが運ばないのが草創期のカープなのである。

 

 この田中の特大アーチを後押しした神風であるが、広島方向から吹いてきたものであれば、カープファンからの後押しというゲン担ぎにもなっただろう。しかし、大陸性の強風とあって、試合が進むとさらに勢いを増した。風ばかりか嵐のごとく砂塵が舞った。

 

 困ったのは審判団である。風の勢いは止まらなかった。
<回を追うごとに風はますます強くなって審判の『タイム』がひんぱんになってきた>(読売新聞カープ十年史『球』昭和34年・第23回)

 

 結局、3回の途中で両監督と審判の協議により試合続行が難しいと判断され、試合終了。ノーゲームとなった。カープ初の1勝と期待がかかった試合だけに残念、無念……。勝ち星どころか、記念すべきカープ第1号となるはずだった田中の特大ホームランも風と共に消えたのであった。

 

 ちなみに公式記録のカープ第1号ホームランは、その4日後のことだった。3月16日の福山市民球場での対中日戦。第1号を放ったのはのちに二代目監督を務める白石敏男(勝巳)だった。

 

 株式会社化も"幻"のまま…

 この幻のホームランに代表されるように、草創期の広島カープには、何事においても一筋縄でことが進まなかった。

 

 球団設立にあたってカープ球団が果たす使命も明確にされていた。カープは一企業、一個人の球団ではなく、広く広島県民、市民とともに歩み、郷土広島の復興のシンボルとして生まれた球団とされ、出資金を出すのは自治体であった。このことは幾度か述べてきた通り。

 

 その証左であろう。2月25日には、広島県から出資される500万円が、現在でいう広島県議会において補正予算の形で可決されている。

 

<廣島カープ野球團へ五百万円、予算外義務負担として出資する追加議案を上程(中略)>(中国新聞・昭和25年2月27日)

 

 この議案について結審を計る上での大義名分として、当時の楠瀬知事はこう説明をしている。

 

<「廣島カープ野球團が県営総合グランドを根拠地として誕生したので、スポーツ普及と入場税の増収をはかるために五百万円、出資したいとの説明があって、採決をとり多数で可決」(中略)>(中国新聞・昭和25年2月27日)

 

 親会社を持たない代わりに、行政組織からの出資で運営されるカープ。その母体となる広島県にしても、あわよくば軌道に乗れば、入場税としての歳入に期待をかけたことは感じられるが、そのことはさておくとする。こうした出資を背景にカープは、株式会社カープ廣島野球倶楽部の設立に臨むはずであった。

 

 3月4日の中国新聞に「6日、正式にスタート」と小さな見出しがあった。

 

<いよいよ六日午後二時から商工会議所で創立発起人会を開き株式会社廣島野球倶楽部を組織、正式にスタートすることになった>(中国新聞・昭和25年3月4日)

 

 希望に胸膨らむ記事が躍った。

 

 しかし、である。カープの考古学第8回で、出資金の内訳と議決をされた日を詳述したが、カープが結成され最初のシーズンが開幕するにあたり、出資金が予算計上され実行された自治体は広島県のみだった。広島市、呉市、三原市、尾道市、福山市は未だ議会での議決がなされていなかったのだ。

 

 これらの帰結として、正式に株式会社が設立され組織が整うのは、なんと最初のシーズンも終わりに近づいた9月3日であり、相当にずれこんだのである。

 

<9月3日:広島商工会議所で創立総会を開き、株式会社として正式にスタート>(『カープ50年―夢を追って-』中国新聞社・広島東洋カープ)

 

 カープは開幕シリーズにおいて試合では幻のホームランが生まれ、球団としても未だ形のない"幻の株式会社"のままであった。船出したかと思えば、一歩、後退したり、先延ばしになったりの繰り返しであった。

 

 こうした波乱の中、将来に向け一筋の光が見えた会心のゲームがあった。地元広島で行われた「廣島シリーズ」である。この時期、唯一、カープファンにとっての一服の清涼剤ともいえる試合である。次回はその試合をキャッチアップしてお届けしよう。乞うご期待。(つづく)

 

【参考文献】  「読売新聞カープ十年史『球』昭和34年・第23回」、「中国新聞」広島カープ十年史(昭和34年12月24日)、「中国新聞」(昭和25年2月27日、3月4日、10日、11日、12日、13日)、『カープ50年―夢を追って-』(中国新聞社・広島東洋カープ)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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