チーム解散に待ったをかけたのが初代監督の石本秀一である。石本は県内に後援会組織をつくり、募金の領収書代わり広島野球倶楽部の株券を発行した。本拠地・広島総合球場前に酒樽を設置すると、400万円もの大金が集まった。これが世にいう『樽募金』である。

 

<この原稿は2021年1月発売の『CARP HISTORY BOOK1950-2020 広島東洋カープ栄光の軌跡』(ぴあ)に掲載されたものです>

 

 石本のリーダーシップに加え、市民、県民の物心両面にわたる支援なくして球団は存続できなかった。こうした歴史的な背景もあって、カープファンには『オラがチーム』との思い入れが、ひときわ強いのである。

 

 1968年の3位を除き、全てBクラスに甘んじていたカープが、“奇跡”を起こしたのが1975年である。10月15日、東京・後楽園球場で巨人を破り、球団創設26年目にして初のリーグ優勝を果たしたのである。

 

 優勝直後のシーンを、私は未だに忘れることができない。胴上げといえば、普通は監督が自軍の選手やコーチたちによって持ち上げられるものだが、あろうことか古葉竹識の体の下には何人もの観客が潜り込んでいた。

 

 古葉は語ったものだ。

「いきなりお客さんが外野の高いフェンスから飛び降りてきてね。僕は最初、お客さんが選手たちと何か話し合っているのかと思って。ところが皆さん、僕の方に向かってガンガンくる。気がつくと下にいるわけですよ。僕はもう心配で、降りなきゃいけない、降りなきゃいけないと思っているうちに胴上げが終わってしまったんです」

 

 このエピソードにこそ、球団とファンの関係性が如実に表れている。両者の『垣根』が極めて低いのだ。もし市民球場での慶事だった場合、いったい、どれだけのファンがグラウンドに流れ込んでいただろう。無数の手により、胴上げは延々と続いたに違いない。

 

 初のリーグ優勝決定から5日後の10月20日、球団は広島市内の平和大通りで優勝パレードを行った。当時の広島市の人口は約85万人だ。主催者発表によると、30万人が集まったといわれている。実に3人にひとり以上がパレードを目に焼きつけたことになる。

 

 古葉の証言。

「感動的だったのは沿道の人たちが遺影を持って立っていらっしゃったこと。戦時や原爆でなくなった人たちの遺影なんです。“ウチのとうちゃんが喜んでるよ”とか言いながらね、それを見て僕も涙が出ましたよ」

 

 このパレードがきっかけとなって生まれたのが『ひろしまフラワーフェスティバル』である。初優勝はまちに貴重な観光資源をも、もたらせたのだ。

 

(おわり)

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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