奈良県立御所実業高校ラグビー部監督の竹田寛行は、徳島県立脇町の出身だ。2005年の市町村合併により、現在は美馬市脇町。県西部に位置する脇町は四国ラグビー発祥の地として、知られている。

 

 脇町がそう呼ばれるのは、ラガーマンだった長谷川茂雄氏が1929年に旧制脇町中学校(現・県立脇町高校)ラグビー部を創設し、そこから四国ラグビーが始まりとされているからだ。34年には全国大会初出場を果たした。竹田の父親は脇町中の卒業生で全国大会出場を経験したラガーマンでもあった。

 

 しかし、竹田自身は小中学時代、ラグビーを始めていなかった。

「私は『巨人の星』を見て野球をしていた世代でした」

 楕円球よりも白球を追いかけた。身体を動かすことが好きだった竹田は、中学で野球部に所属しながら、駅伝大会などがあれば陸上部に借り出された。

 

 当時、徳島県内では74年に池田高校が選抜高校野球大会で準優勝した。蔦文也監督の下、部員わずか11人での快挙を成し遂げた“さわやかイレブン”は一世を風靡した。池田で野球がしたいと思う球児は少なくなかった。竹田もその1人だったが、父親の反対を受け、池田進学は断念することとなった。

 

 竹田が入学したのは父親と同じ脇町高。前述したようにラグビー部はあったのだが、彼はどの部活にも入部しなかった。

「親父がラグビーをやっていたのは知っていましたが、ラグビー部はワルの集まりというイメージがありました」

 負のイメージを払拭したのが体育の授業や球技大会だった。楕円球に触れてみると、ラグビーの虜になるのに時間はかからなかった。

 

「“ワケがわからんけど面白いな”と感じました。ラグビーはミスが多いスポーツ。そのミスをみんなで助け合うことで仲間意識が芽生える。他のスポーツ以上に仲間意識の強さがあった。『人数が足らんから出てくれ』と友人から誘われたことがきっかけでラグビー部に入りました」

 身長180cm、体重は80kgほどだった竹田は主にLOでプレーした。「ボールを持って走る楽しさ。ミスをカバーし合うことに、どんどんハマっていきました」。気が付けば、楕円球を必死で追いかける日々を過ごした。

 

「学校の勉強はしないのに、ラグビーの勉強は一生懸命でした。東京の秩父宮ラグビー場に社会人の試合を観に行ったりもしました」

 テレビの放送も多くはなく、雑誌を読んでも分かり得ない情報を得るためとはいえ、徳島から東京へ行くとは並大抵のハマり具合ではないだろう。中学時代に夢中に野球でもここまでの熱量はなかったという。

 

「僕の将来は僕が決める」

 

 とはいえ脇町高は進学校だった。ラグビーだけに夢中になるわけにもいかない。決して勉強が得意ではなかった竹田は、なかなか気が進まなかった。

「勉強できる子の中では私は“落ちこぼれ”なわけですよ。先生には『国公立の大学に入るためにこういう勉強しなさい』などと言われる。だけど、その先生は挨拶をきちんとするわけではなく、ゴミが落ちていたら拾うということもない。私は疑問に思い、不信感を抱くほどでした。高校1年の半ばぐらい、私のテストの点数が悪かった時、その先生からは『このままでは国公立に行けません』と言われました」

 

 その教師の一言に竹田は猛反発した。

「僕がいつ『国公立に行く』と言うたんですか。それはあなたの押しつけでしょ。僕の将来は僕が決めること」

 教師への反抗は親に怒られたものの、竹田の思いは揺るがなかった。押しつけられることに我慢できず、「失礼ですけど、帰ってください!」と言い放ったのだ。

 

「その頃から“何のために勉強するんやろう”と思っていました。いい大学に行くことだけがすべてはない。勉強をしたくないからかもわかりませんでしたが、その点を疑問に感じていました。叔父には『人間の体は頭を使うか、身体を使うか。一生涯そうやで』と教わっていた。それで自分は“身体を使う方、自分の好きなことで開花できるかもしれない”と考えたんです」

 反骨精神が竹田の原動力となった。ラグビーで全国大会に行くことはかなわなかったが、四国大会などで活躍した。晴れて大学には、ラグビーの実力を評価されて進むことができた。

 

 高校卒業後、奈良の天理大学に進んだ。竹田はNo.8でもプレーするようになり、全国大学選手権に出場するなど、全国大会を経験した。社会人チームへの入団を考えていたが、父親が心筋梗塞で倒れたとの報せを受け、徳島に帰らざるを得なくなった。

 

 竹田は地元で教員の道を一度は考えたが、父親の容態が回復したことで、母校の天理大でコーチを務めながらラグビーに関わり続けた。83年には奈良県の教員採用試験に合格。翌年の奈良県で開催される国民体育大会のため、奈良県は選手を求めていた。県内の教員チームである奈良クラブに所属し、選手として再び楕円球を追いかけた。奈良クラブでは関西社会人のトップチームも在籍するAリーグで3年プレーし、Bリーグに降格した後も現役を続けた。

 

「花園を狙ったらアカンのか!?」

 

 86年、竹田は奈良県立大淀高校に赴任した。奈良クラブ2年間陸上部の指導をした後、サッカー部のコーチに就いた。サッカー経験はなかったが、それは顧問の阿部章監督(現・時之栖スポーツセンターGM)も同じ。柔道出身の阿部監督は64年東京オリンピック代表候補にも選ばれるほどの実力者だったが、現役引退後は門外漢のサッカーの指導者として鳴らした。79年に全国高校選手権大会初出場に導くなど、大淀高を全国レベルの強豪に押し上げた実績を持つ。「スポーツだけじゃなく人間としての付き合い。教師としても厳しかった」と竹田は振り返る。阿部監督から学んだことは数え切れないほどだ。

 

 本格的な指導者生活は陸上とサッカーという専門外の競技からスタートした。

「そういう時間があったからこそ、ラグビー独自の考え方に染まらなかったのかもしれません」

 特にサッカー部での1年間は竹田にとって貴重な経験となった。なぜなら阿部監督の元には、全国から指導者がやって来たからだ。鹿児島実業高校の松澤隆司監督、国見高校の小峰忠敏監督らサッカー界の名将たちが訪れた。たくさんの刺激や学びがあった。

 

 とはいえラグビーへの情熱を失っていたわけではない。サッカーの魅力を感じてはいたものの、「このままだとサッカーの指導者として後に退けなくなりそうだった」と転勤を願い出た。「僕はラグビーでチャレンジしたいです」。お世話になった阿部監督にもきっぱりと自らの思いを伝えた。

 

 時代は昭和から平成に変わろうとしていた89年。竹田は御所工業高校(現・御所実業高校)に赴任した。当時の御所工業は竹田によれば「『県でワースト3』と言われていました。工業高校が荒れていた時代」だったという。ドラマ『スクール☆ウォーズ』のモデルとなった京都の伏見工業高校に代表されるように、工業高校には“ヤンチャ”な生徒たちが集っていた。

 

 竹田が赴任したタイミングで御所工業は新校舎に建て替わった。ラグビー指導者としてスタートを切るには、ふさわしい場所だったのかもしれない。しかし、御所工業のラグビー部は形骸化しており、公式戦も出場していなかった。竹田が着任時の部員はわずか2人。ラグビーボールもろくに揃っていないような状況だった。

「大学から余ったボールをもらってきて、練習していましたね」

 

 竹田は奈良県の高校ラグビー指導者が集まる席で、「花園(全国高等学校ラグビーフットボール大会)を狙っているのか」と怒気を含んだ声で言われたという。当時、奈良県の高校ラグビーは天理高校が絶対的な強さを誇っていた。花園で5度の優勝。その強さゆえに、部員数もままらない学校の新任の指導者が“打倒・天理”を掲げたことを快く思わなかったのだろう。

「“なぜ狙ったらアカンのか!?”と反発しましたね。“天理高校がおるからしょうがない”という諦めの考えでは県全体も強くならない。“オマエらプロだろ。自分のキャパシティでモノを押しつけるな。もっと生徒を大事にせいや”との気持ちが私の中に沸いてきました」

 

 御所工業を全国へ連れて行く――。その思いを一層強くした竹田だったが、赴任して2年目に思いもよらぬ悲劇に見舞われた。

 

(第3回につづく)

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竹田寛行(たけだ・ひろゆき)プロフィール>

1960年5月8日、徳島県脇町(現・美馬市)生まれ。中学時代は野球部と陸上部に所属。脇町高校に進学後、ラグビーを始める。ポジションはLO、No.8。脇町高、天理大学、奈良クラブを経て、現役引退。89年、御所工業高校(現・御所実業高校)ラグビー部監督に就任した。95年度に全国高校ラグビー大会(通称・花園)初出場を果たすと、08年度に準優勝。御所実業を13度の花園出場、4度の準優勝に導いている。そのほか全国大会では国民体育大会2度優勝、全国高校選抜大会で2度の準優勝。今年3月で定年を迎えるが、非常勤講師としてラグビー部の指導を続ける。

 

(文/杉浦泰介、写真/御所実業高校ラグビー部)


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