竹田寛行(御所実業高校ラグビー部監督/徳島県脇町出身)第3回「息づくまちの“祭”」

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 人口約2万5000人の奈良県御所市には、夏の風物詩となっている“祭”がある。例年7月に開催される御所ラグビーフェスティバルだ。奈良県中部に位置する町に述べ7000人ほどの人が集まる。このイベント生みの親は、県立御所実業高校ラグビー部の竹田寛行監督である。その起源は30年以上にまで遡る。

 

 1989年、御所実業の前身、御所工業高校に赴任した竹田は、ラグビー部監督に就いた。スタートは部員2人。当然、試合ができない人数だ。チームジャージーもなく、公式戦にも数年間出ていないような状況だったという。竹田は早速、新入生を18人、ラグビー部に勧誘し、試合が戦える人数に増やした。目標に掲げていた全国高等学校ラグビーフットボール大会(通称・花園)への一歩を踏み出したのだった。

 

 いざ花園へ――。しかし、就任2年目のある日、悲劇は起こった。5月の練習試合、スクラム中の事故で、2年の北島弘元が頸椎を損傷してしまったのだ。直前にスクラムトライを挙げていた。「成長実感できた瞬間の直後だった……」と竹田。翌日からラグビー部は活動禁止となった。竹田や部員たちは病院に通い、回復を願ったが、祈りは届かず、2カ月後、北島はこの世を去った。彼は竹田が前年に勧誘した18人のうちの1人だった。

 

 不慮の事故とはいえ、竹田は監督責任を問われた。本人は「教師を辞めなければアカンと思っていました」と覚悟を決めていた。その噂を聞きつけた部員たちからは、「先生、逃げるのか!」と責められた。気持ちは揺れたが、教壇から降りる覚悟だった。

「後ろめたい気持ちはありましたが、私が責任を取らなければいけないと思っていました」

 

 竹田の覚悟が変えさせたのは、保護者たちの想いだった。学校側、教育委員会に嘆願書を提出するなど、ラグビー部の活動再開に向けて尽力してくれたのだ。北島の両親からは「北島弘元がこの世に生きてきた証を残すためにも再開してくれ」と説得され、竹田は翻意した。

 

「“辞めることだけが責任の取り方やないんや”と、ハッとしました。私が学校に残り、“北島が生きてきた証をずっと残していかないといけない”と思ったんです。それがすべてを背負うということだと気付かされました」

 御所工業ラグビー部は、年が明けると活動を再開した。迎えた公式戦(近畿大会奈良県予選)では、天理教校附属高校(現・天理教校学園高校)と畝傍高校を破り、準優勝。41年ぶりの近畿大会出場を果たしたのである。

 

 この頃、新調したジャージーは黒。竹田の母校である天理大学のジャージーと同じ色を選んだ。「大口を叩くなら、とことん叩こうと“オールブラックスを倒すぞ”という意味も込めました」。漆黒のジャージーは、今も御所実業のチームカラーとなっている。

 

 地域との繋がり

 

 竹田は“北島が生きていた証を残そう”と一周忌となる91年の7月から追悼試合をスタートさせた。しばらくすると北島の父親から「追悼セレモニーはもうやめてください」との要請もあり、その名は『御所ラグビーフェスティバル』に鞍替えをした。毎年7月に行われる御所市の風物詩は、いつしかその輪を広げ、全国からたくさんの高校が集まるようになった。御所市の協力を得て、イベントは拡大していった。07年に御所工業と御所東の2校が統合し、御所実業となった今でも脈々と受け継がれている。現在、ラグビー部はラグビーフェスティバル開催時には、その運営を任されている。

 

 ラグビーを通じての地域貢献である。一方でラグビー部員たちにとって、御所ラグビーフェスティバルは学びの場となっている。

「子どもたちには、準備などの目立たない仕事を学んでほしい。いわゆる目に見えない仕事。ラグビーフェスティバルを通じ、自己認識力を高めることで、人に対する思いやりや気付きの力をつけてほしい。そういう力が身に付けばラグビーにも繋がると思うんです。ミスが多いスポーツ。ミスをさせないためにチームとして、どうアプローチしていくかも大事です。私たちは3年間で、それをどう植え付けられるか」

 

“おもてなし”の心を学ぶことで竹田は人間的な成長に期待する。ひいては、そのことがラグビー選手としての成長にも繋がると考えているからだ。

「地域からの評価は他者評価です。他者評価を受けることで子どもたちは成長できる。常に周りから見られている。その自覚や責任を持つことが子供たちの成長に繋がると考えています」

 

 現在、リコーブラックラムズのGMを務める西辻勤は、奈良県出身で御所工業入学後に御所市に越してきた。高校卒業後は御所を離れ、早稲田大学、リコーに進んだ。御所ラグビーフェスティバルに足を運んだのは現役引退後、リコーのアシスタントGMになってからだ。その時の印象を訊ねると、「私がいた頃とは活気が違いました」と答え、こう続けた。

「当初は無名の公立高校だったのが今は地域の中心にいる。その姿を見た時には本当に驚きました。町のお母さんたちがご飯を作りに来てくれている。私が企業中心の考え方を変えたいと思っているところに、地域に根差した活動を実践しているのが母校でした。人口3万人に満たない町であれだけの人を巻き込んでいるのは、すごいことです」

 

 御所実業の歴史に話を戻せば、統合前の御所工業時代、94年の近畿大会奈良県予選で対天理高校初勝利を挙げた。初の花園は95年度。竹田が監督に就任して7年目の秋のことだった。奈良県予選決勝では天理に31-15で快勝しての悲願達成である。初の全国大会は2回戦で敗退した。その2年後の97年度には、2度目の花園を経験。この年は先述した西辻に加え、のちの日本代表のキャプテンになる菊谷崇らがいた。しかし、全国の壁は厚く、またしても2回戦で花園を去ることとなった。その後は天理が“白い壁”となって御所工業の前に立ち塞がった。花園へは6年遠ざかり、3度目の出場は03年度まで待たなければならなかった。

 

(最終回につづく)

>>第1回はこちら

>>第2回はこちら

 

竹田寛行(たけだ・ひろゆき)プロフィール>

1960年5月8日、徳島県脇町(現・美馬市)生まれ。中学時代は野球部と陸上部に所属。脇町高校に進学後、ラグビーを始める。ポジションはLO、No.8。脇町高、天理大学、奈良クラブを経て、現役引退。89年、御所工業高校(現・御所実業高校)ラグビー部監督に就任した。95年度に全国高校ラグビー大会(通称・花園)初出場を果たすと、08年度に準優勝。御所実業を13度の花園出場、4度の準優勝に導いている。そのほか全国大会では国民体育大会2度優勝、全国高校選抜大会で2度の準優勝。今年3月で定年を迎えるが、非常勤講師としてラグビー部の指導を続ける。

 

(文/杉浦泰介、写真/御所実業高校ラグビー部)

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